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Teshima sense 「豊島の気配」戸高千世子
数多くのオブジェを池に浮かばせるインスタレーション作品を発表。そのオブジェは、池に舞い降りた鳥のようで花びらのようでもあり、見るものの想像力を掻き立てる。
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Tom Na H-iu 「トムナフーリ」森万里子
トムナフーリとは古代ケルトにおける霊魂転生の場のこと。この伝説から着想し、ガラスのモニュメントを制作。作品とスーパーカミオカンデをコンピューターで結び、超新星が爆発すると光を放つ。
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"Tom Na H-iu", 2006, ed. 2 + 1AP, 327.6 x 115.4 x 39.8 cm,
Glass, Stainless steel, LED control system,
Photo: Richard Learoyd
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by takechihome | 2010-10-31 21:07
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Robert Adam (3 July 1728 – 3 March 1792) was a Scottish neoclassical architect, interior designer and furniture designer. He was the son of William Adam (1689–1748), Scotland's foremost architect of the time, and trained under him. With his older brother John, Robert took on the family business, which included lucrative work for the Board of Ordnance, after William's death.

In 1754 he left for Rome, spending nearly five years on the continent studying architecture under Charles-Louis Clérisseau and Giovanni Battista Piranesi. On his return to Britain he established a practice in London, where he was joined by his younger brother James. Here he developed the "Adam Style", and his theory of "movement" in architecture, based on his studies of antiquity and became one of the most successful and fashionable architects in the country. Adam held the post of Architect of the Kings Works from 1761 to 1769.

Robert Adam was leader of the first phase of the classical revival in England and Scotland from around 1760 until his death.[2] He influenced the development of Western architecture, both in Europe and in North America. Adam was not content with providing houses for his clients but very ready to design the fittings and accessories as well.

Kedleston Hall. The south front by Robert Adam, based on the Arch of Constantine in Rome
Kedleston Hall was Brettingham's opportunity to prove himself capable of designing a house to rival Holkham Hall. The opportunity was taken from him by Robert Adam who completed the North front (above) much as Brettingham designed it, but with a more dramatic portico.
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Kedleston Hall is an English country house in Kedleston, Derbyshire, approximately four miles north-west of Derby, and is the seat of the Curzon family whose name originates in Notre-Dame-de-Courson in Normandy. Today it is a National Trust property.

The Curzon family have owned the estate at Kedleston since at least 1297 and have lived in a succession of manor houses near to or on the site of the present Kedleston Hall. The present house was commissioned by Sir Nathaniel Curzon (later 1st Baron Scarsdale) in 1759. The house was designed by the Palladian architects James Paine and Matthew Brettingham and was loosely based on an original plan by Andrea Palladio for the never-built Villa Mocenigo. At the time a relatively unknown architect, Robert Adam was designing some garden temples to enhance the landscape of the park; Curzon was so impressed with Adam's designs, that Adam was quickly put in charge of the construction of the new mansion.

ベニシア・スタンリー・スミス(Venetia Stanley-Smith、1950年 - )はイギリス出身のハーブ研究家・英会話学校経営者である。夫は山岳写真家の梶山正である。また曽祖父の兄はイギリスの外相・インド副王( インド総督)だった大物政治家のジョージ・カーゾン 侯爵であり、祖父リチャード・ナサニエル・カーゾンはスカーズデール子爵であった。

生家はイギリスの名建築家ロバート・アダムが手がけたケドルストンホール(現在はナショナルトラストが管理)というカーゾン家のマナーハウスであった。海外などで生活を送った後、10歳の時にヒースフィールド寄宿舎制の女子校で学んだ。19歳の時に母国を離れてバックパッカーとしてインドに辿り着き、暫く現地でグルに従事しながら生活をしていたが、1971年に船で日本の九州南部に渡り、東京・岡山の生活を経て、1978年から京都で英会話学校の経営を始める。
1996年に大原に移住、これがきっかけとなり、テレビ・新聞・講演・カレンダーなどメディアを取り上げている。

by wikipedia
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by takechihome | 2010-10-27 00:11
美術史美術館(びじゅつしびじゅつかん、Kunsthistorisches Museum, Wien)は、ウィーンにある美術館である。自然史博物館と対になるものとして建てられ、1891年開館。現在は組織上ウィーン大学の一部局である。

オーストリア、ドイツ、スペイン、イタリア、ベルギー、オランダの各地ハプスブルク家の領土を中心に生み出された400年間に亘る美術コレクションを中心とする美術館で、1891年、一般公開された。古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している。なかでもピーテル・ブリューゲルの作品数は世界最大を誇り、『雪中の狩人』『農民の踊り』『子どもの遊戯』など、美術全集でおなじみの傑作が1室に集められている。また、ハプスブルク家の人物の肖像画なども多数収められている。

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ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude, 1525/30年 - 1569年9月9日)は、16世紀のフランドルの画家
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人物
『農民の踊り』、『子どもの遊戯』、『雪中の狩人』などの風俗画で有名な画家であるが、生年は(1525年から1530年の間と推定されているが)不明である。生地についてもブラバント公国のブレダとする説もあるが、確かなことはわかっていない。

同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。

同名の長男は地獄の絵を描いたということで「地獄のブリューゲル」と通称される画家で、父の模作を多く作った。二男のヤンは静物画、特に花の絵を得意として「花のブリューゲル」と通称されている。ブリューゲル一族は他にも多くの画家を輩出している。もっとも、父ブリューゲルが没した時、長男は5歳、二男は1歳であって、父から直接絵画の手ほどきを受けたわけではない。

来歴
(以下の記述中の「ブリューゲル」はもっぱら父親のピーテル・ブリューゲルを指す)

ブリューゲルの名が、アントウェルペンの聖ルカ組合(画家組合)の一員として登場するのは1551年のことである。前述のとおり、それ以前のブリューゲルの経歴については、生年も含めてはっきりわかっていない。

1551年をあまり隔たらない時期にイタリアへ行き、1555年頃までにはアントウェルペンに戻っている。ブリューゲルの絵画はイタリア的というよりは北方的であるが、イタリア旅行の影響は、その後の作品の風景表現などに部分的に見られ、代表作『雪中の狩人』の風景には、イタリアへの往復で目にしたアルプスの風景が反映していると考えられている。

初期には先輩画家ヒエロニムス・ボスの影響の強い、寓話を題材にした絵画が多い。版画の下絵を主に描き、油彩に専念するようになるのは1560年前後からである。今日知られるブリューゲルの代表作は、この頃から、没年の1569年までの10年足らずの間に描かれている。1560年代初めには、「反逆天使の墜落」、「死の勝利」などの、ボスの作品を思わせる怪奇なものもあるが、後に農民の生活を主題とするようになった。1563年にはアントウェルペンからブリュッセルへ移り、結婚するが、1569年幼い息子2人(後に画家となる)を残し、30代末〜40代前半で没した。

農民画家ブリューゲル ブリューゲルは農民たちの生活を多く題材にしたことから、「農民画家ブリューゲル」とも呼ばれた。

画家自身、人文主義者とも交流のある教養人であり、この時代の絵画題材は農民を「無学で愚かな者」の象徴として描写されたものが多かったため、以前はブリューゲルの絵画もその例にならっただけであるとの説を採り、絵の中にキリスト教的な寓意を読み取ろうとする見方が多かった。

これに対し、森洋子や阿部謹也は、農作業に向かう娘たちの初々しい表情や、結婚式に集まる人々の歓喜の様子といった、彼らの生活の隅々にまで入り込み、「人間」としての農民たちの生き生きとして細を極める描写は、農民たちの側に立って、その心の奥まで知り尽くした者でなければ到底描け得ないものであり、こういった画一的な見方は当てはまらないとしている。

実際、ブリューゲルの作品は、驚くほど細かい細部まで丹念に描きこまれ、歴史資料、風俗史資料としても貴重な、多くの視覚情報を含んでいる。『子どもの遊戯』などはこの作品に登場する「遊び」の解説だけで1冊の本が出ているほど、興味の尽きない作品であるが、こういった例はブリューゲルの作品には珍しいことではない。

「股の間から景色を覗いて農村風景のスケッチをとる習慣があり、その姿勢の最中に死んだ」という民間伝承が残されており、阿部謹也は「それこそまさに“逆立ちした世界”を描き、農民との間に生きたブリューゲルにふさわしい最期だ」と評している。

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by takechihome | 2010-10-24 12:47
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NHK 100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者 失踪の謎~ から

幾何化予想(きかかよそう、Geometrization conjecture)は、1982年にアメリカの数学者ウィリアム・サーストンによって提出された「コンパクト3次元多様体は、幾何構造を持つ8つの部分多様体に分解される」という命題。位相幾何学と微分幾何学を結びつけるものでありミレニアム懸賞問題にも挙げられていたポアンカレの予想問題の解法の過程として思いつかれた。2003年、グリゴリー・ペレルマンによるリッチフロー(Ricci flow)を用いた証明が示され、現在ではその証明が基本的に正しいものとされている。これにより、およそ100年にわたり未解決だった3次元ポアンカレ予想が証明されることになった。

グリゴリー・ヤコヴレヴィチ・ペレルマンまたはペレリマン(Григорий Яковлевич Перельман、Grigory Yakovlevich Perelman、1966年6月13日 - )は、ユダヤ系ロシア人の数学者である。ミレニアム懸賞問題の一つであるポアンカレ予想を解決した。

彼はウィリアム・サーストンの幾何化予想(ポアンカレ予想を含む)を解決してその系としてポアンカレ予想を解決した。手法もリチャード・S・ハミルトンの発見したリッチ・フロー (Ricci flow) (ハミルトン・ペレルマンのリッチ・フロー理論)と統計力学を用いた独創的なものである。ペレルマン論文に対する他の数学者達による検証は、国際的な数学者の助力の下2006年夏頃まで続いたが、結論として少なくともポアンカレ予想についてはペレルマンの証明は正しかったと考えられている。

ほとんどの数学者がトポロジーを使ってポアンカレ予想を解こうとしたのに対し、ペレルマンは微分幾何学と物理学の手法を使って解いてみせた。そのため、解の説明を求められてアメリカの壇上に立ったペレルマンの解説を聞いた数学者たちは、「まず、ポアンカレ予想を解かれたことに落胆し、それがトポロジーではなく微分幾何学を使って解かれたことに落胆し、そして、その解の解説がまったく理解できないことに落胆した」という[1]。なお、証明には熱量・エントロピーなどの物理的な用語が登場する。

2006年度、ポアンカレ予想解決の貢献により「数学界のノーベル賞」と言われているフィールズ賞(幾何学への貢献とリッチ・フローの解析的かつ幾何的構造への革命的な洞察力に対して)を受賞したが、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」として受賞を辞退した。フィールズ賞の辞退は彼が初めてである。ペレルマンは以前にも昇進や欧州の若手数学者に贈られる賞を辞退するなどした経緯があり、賞金に全く興味を示さなかったり、自分の論文をあまり公表したがらない性格でも知られていた。アメリカの雑誌の取材に対しては「有名になると何も言えなくなってしまう」と答えている。
by wikipedia
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by takechihome | 2010-10-06 22:36
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by takechihome | 2010-10-04 23:28
 
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Massimiliano Fuksas
1944年イタリアのローマに生まれる。1969年ローマ大学を卒業。1967年にローマ事務所、1989年にパリ事務所を、1993年にはウィーン事務所を設立。シュツットガルトの建築アカデミー、パリの建築専門大学、ハノーヴァー大学、ウィーンの建築アカデミー、ニューヨークのコロンビア大学にて客員教授を務める。最近の主なプロジェクトは、トリノのペリモンテ州庁舎、ローマのASI本社、ローマ-エウルの会議展示センターなどその他多数。現在、ローマとパリを拠点に仕事を行っている。
http://www.fuksas.it
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by takechihome | 2010-10-01 20:47