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高梁市立吹屋小学校(たかはししりつふきやしょうがっこう)は岡山県高梁市にある市立の公立小学校。

2009年度現在の児童は5人。 現役で使用されている日本最古の小学校校舎として有名。岡山県の重要文化財に指定されている。


開校は1873年で、1899年に現在地に移転した。1900年竣工の西校舎・東校舎(木造平屋建)と1909年竣工の本館(木造2階建)とで構成される。

江戸時代から戦前にかけて日本三大銅山の町として、さらに江戸時代末期からはベンガラの日本唯一の産地として繁栄した「吹屋」のいわば絶頂期に建設された小学校校舎である。

標高550mの山嶺にある小さな集落には不釣合いともいえる大きな規模を持ち、折上式天井などの贅沢な意匠、100年を経ての現役使用を可能とする部材・構造であることなど、当時の吹屋を象徴する建造物ともいえる。夜間はライトアップされる。

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by takechihome | 2010-12-11 22:21
標高500mの山嶺に江戸時代から明治にかけて中国地方筋第一の銅山町に加え、江戸時代末期からベンガラという特産品の生産が始まり、幕末から明治にかけて「ベンガラの町」として全国に知られました。昭和49年12月岡山県指定 「吹屋ふるさと村」に、昭和52年5月文化庁選定 国の重要伝統的建造物群保存地区として選ばれ、ベンガラ格子に石州瓦の商家・町屋の町並みを多くの観光客が訪れるようになりました。横溝正史の推理小説でおなじみの「八つ墓村」のロケ地として、昭和52年には渥美清、平成8年には豊川悦司が扮する金田一耕介が訪れなぞ解きに挑戦しました。また、「獄門島」や「裸の大将」などの撮影も行なわれ全国的に知られました。
Fukiya Furusato Village
Fukiya area has made rapid progress by manufacturing iron sulfate.And these have been designated ”important traditional structure of Japan”.Allstructures colored reddish brown are as beautiful as if we were in another world.

吹屋の町並み 
吹屋ふるさと村のメインストリートにあたる道沿いに、ベンガラ格子に赤銅色の石州瓦が印象的な堂々とした商家が軒を連ねています。
 江戸時代から明治にかけて中国筋第一の鉱山町に加えて江戸時代末期からベンガラという特産品の生産が重なり、当時の鉱業地として大いに繁昌した面影です。
 幕末から明治にかけて、吹屋はむしろ「弁柄の町」として全国に知られていました。しかも吹屋街道を拠点として、銅や中国山地で生産される砂鉄、薪炭、雑穀を集散する問屋も多く、備中北部から荷駄の行列が吹屋に続き旅籠や飲食店の建ち並ぶ山間の市場として吹屋の繁昌を保っていました。
 これらの銅や鉄、弁柄は吹屋から更に馬に負わされて成羽に運ばれ、それから高瀬船で玉島港に集められ、上方や西国へ輸送されたのです。江戸時代から成羽や玉島の繁昌は、吹屋の鉱業に負うところが大きかったと言われています。

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旧片山邸(高梁市重要文化財) TEL0866-29-2222(観光協会)/入館料300円(郷土館共通券)/旧片山邸は、宝暦9年(1759)の創業以来、200年余年にわたって吹屋ベンガラの製造・販売を手がけた老舗です。その家屋は、弁柄屋として店構えを残す主屋とともに、弁柄製造にかかわる付属屋が立ち並び、近世弁柄商家の典型として高く評価されています。赤い石州瓦で葺かれた二階建(一部三階建)の主屋は、江戸時代後期に建てられた切妻造り平入の主体部に、江戸時代末になって仏間が加えられ、明治時代にはさらに入母屋造妻入の座敷が増設されています。通りに面した外観は、一階に腰高格子を飾る袖壁や繊細な出格子を配し、二階は海鼠壁で仕上げていて、近代風の装いとなっています。

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郷土館 TEL0866-29-2205/入館料300円(旧片山邸共通券)/5年の歳月をかけて明治12年に完成された吹屋商人の家です。妻入の入母屋型で塗込造りとベンガラ格子の建並ぶ中でも代表的な建物の一つで、石州大工の手により建てられ、屋根は石州本焼で葺かれ、ケヤキ、クリ、桜など代表最上級の用材がふんだんに使われ、その建築のきめ細やかさには目をみはるものがあります。
Fukiya Historical Musenm Explore the nooks and crannies of this well-preserved merchant's home and you can appreciate the way of life in 19th Century Fukiya.
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by takechihome | 2010-12-10 20:08
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ミラノ中央駅前に建つのがこのピレリ・ビルなのですが、イタリアにおいて第二次世界大戦後すぐに建てられた高層ビルなのです。このビルは徹底した工業化によって作られたといいます。しかし、実際に工業化によって作られたのだとしても、決して現在のように製品規格に縛られた工業化とは違いました。そこにはこのビルだけのための規格があるように思えたからです。窓枠のプロポーションなどは見た目にバランスがよく、工業というより工芸的美術品といった要素があります。そう感じさせるのはジオ・ポンティの手によるところがやはり大きいでしょう。ここにはサンカルロ病院礼拝堂と同様の「建築は結晶である」とするポンティの美意識が具現化していました。しかしこのビル、どこかのビルによく似ています。そう青山タワービルです。ビルの規模こそ違いますが、妻部が三角形になっていたり、垂直に開口があるところなど...そのままと言ってもいい程です。サンカルロ礼拝堂同様やっぱり平面は横長の六角形。ほんとこの形にこだわり続けた人です。結晶の形=六角形なのでしょう。すごく単純ではありますが、その六角形のとてもバランスがいいんです。ここがポンティのすごいところですね。単純な幾何学を形を単なる幾何形ではなく美しい幾何形にしていますから。そのピレり・ビル、フラット面に微妙にむくリが付けられ垂直に2本の縦筋が設けられています。ですから正確には六角形と基本とした十角形となります。こうして見える正面の2本の筋、これにより立面は垂直に3分割されることになります。これが実際よりもこのビルを細長く見せているのです。また側面から見るとむくりは見えず塔にしか見えません。 [architectural map]
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ジオ・ポンティ (Gio Ponti、1891年11月11日-1979年9月16日)はイタリアの建築家、インダストリアルデザイナー、家具デザイナー。建築・デザイン雑誌Domusを創刊したことでも知られる。
1891年、ミラノに父エンリコ・ポンティと母ジヴァンナ・リゴーネの間に生まれる。1921年ミラノ工科大学建築学部を卒業。ミラノで他の建築家と共同で事務所を立ち上げる。1923年から1930年にかけてイタリアの陶磁器メーカー、リチャード・ジノリでアートディレクターを務めた。1928年には雑誌ドムスを創刊。初代編集長を務めた。1963年-61年にミラノ工科大学建築学部教授を務める。
代表作に1951年発表の椅子スーパーレジェーナ、ミラノのピレリ・ビル(構造家、ピエール・ルイージ・ネルヴィと共同)、デンバー美術館北館(1971年、アメリカ合衆国・コロラド州)などがある。wikipedia
Ponti began his architectural career in partnership with Mino Fiocchi and Emilio Lancia from 1923 through 1927, and then through 1933 with Lancia only, as Studio Ponti e Lancia PL. In these years he was influenced by and associated with the Milanese neo-classical Novecento Italiano movement. Output of the time includes the 1925 house on Via Randaccio in Milan, the 1926 Bouilhet villa in Garches, Paris, the 1929 Monument to the Fallen with the Novecento architect Giovanni Muzio, the Casa Rasini apartment blocks in Milan, and the 1930 Domus Julia–Domus Fausta complex on Via Letizia.
Around 1933, Ponti ended his relationship with Lancia and teamed with two engineers, Antonio Fornaroli and Eugenio Soncini, to form Studio Ponti-Fornaroli-Soncini which would last until 1945. Their first major commission was the 1936 company headquarters for the Italian chemical firm Montecatini, followed by a number of other industrial and university commissions through the war years, offices for Fiat, and the Palazzo del Liviano for the University of Padua in which Ponti himself painted frescos.
Ponti in 1950 won the commission to design the 32-story Pirelli Tower in collaboration with Pier Luigi Nervi and Arturo Danusso. This was the second skyscraper built in Milan, and likely the climax of Ponti's entire career. Construction began in 1956.
A 1954 building in Genova made for Assicurazioni Generali
In 1951, Ponti designed the master plan, and two individual block contributions, for the IINA l'Istituto Nazionale per le Assicurazione) Casa quarter housing project in Milan. In 1952 he went into partnership with the architect Alberto Rosselli (Studio Ponti-Fornaroli-Rosselli, P.F.R.: 1952-1976); after the death of Rosselli he continued to work with his long time partner Antonio Fornaroli. From 1953 to 1957, he built the Hotel della Città et de la Ville and the Centro Studi Fondazione Livio e Maria Garzanti, in Forlì (Italy), by the assignment of Aldo Garzanti, a famous Italian publisher.
As the Pirelli Tower attracted more attention, international commissions came in to Ponti's office, for Caracas, Venezuela, Baghdad, Hong Kong, Eindhoven and the 1971 Denver Art Museum, and finally a series of Milanese churches: San Francesco in 1963, the church at Ospedale San Carlo in 1967, and the Taranto Cathedral in 1971.
Between 1960 and 1962 Ponti designed and realize the first Italian Hotel Design: the Parco dei Principi (Sorrento) wikipedia
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EL CERRITO LA OBRA MAESTRA DE GIO PONTI EN CARACAS
work of villa in Venezuela
Today's CD
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Jacintha is her name
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by takechihome | 2010-12-09 22:10
北海道大学雪のキャンパス
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国立大学法人北海道大学工学部建築都市スタジオ棟
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Today's CD
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Album Description
Bliss North American debut is a chill out masterpiece, deeply rooted in a fine collage of western, African and classical musical influences, and representing the vast musical backgrounds of the band. Bliss has inspired comparisons to Sade, Norah Jones, Enya and Ennio Morricone. With its captivating vocals, gentle percussion and gracious orchestration, Quiet Letters is described by Buddha Bars DJ Ravin as The Album of the Year, one of those albums that you have always been looking for without ever finding. Featuring guest vocals by Zero 7s Sophie Barker, Quiet Letters is an album that transports you far beyond the beaches of Ibiza, on a travel through African soul, Scandinavian jazz, and ethereal pop
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by takechihome | 2010-12-07 21:26
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半円状のモエレ沼の内側を中心に、沼の岸も含む。1988年に着工し、2005年7月1日に完成、オープンした。面積はモエレ沼の水面もあわせて1.89km²。2002年度のグッドデザイン大賞を受賞している。
モエレ沼公園の整備は、札幌市の市街地の周囲を緑化しようという「緑化環状グリーンベルト構想」で始まった。1979年からゴミの搬入・埋め立てが始まり、公園の基盤整備は1982年から始まった。ゴミの埋め立てが終了したのは1990年である。埋め立てられた廃棄物の量は約270万トンに達する。
公園の基本設計は、日系米国人の彫刻家イサム・ノグチ、監修はイサム・ノグチ財団ショージ・サダオ(貞尾昭二)、はアーキテクトファイブによる。設計監理統括者は川村純一。彼は若い頃から彫刻作品を作る一方で「大地を彫刻する」公園計画などに興味を持ち、1930年代以来「プレイマウンテン」など様々な模型を製作し、コンペにも参加していたがなかなか果たせなかった。しかし札幌市が市街地の周りを公園や緑地など8つの緑地帯で包み込もうとする計画を建て、市長への推薦からノグチへオファーが舞い込んだ。
1988年3月に札幌を初めて訪れたノグチは、ゴミ埋立地だったモエレ沼のために公園を設計した。この計画の中には、彼の数十年来の構想であったプレイマウンテンも含まれていた。彼はそれが形になるのを見ずに同年末に死去したが、その後も基本設計に基づき工事は進められた。当初、全施設の完成予定は2004年とされていたが、それ以前から完成済みの設備から順次利用に供用されている。2005年には最後に残された中央噴水「海の噴水」の工事が完成し、同年7月1日にグランドオープンを迎えた。
園内にはノグチが設計した多数の遊具が設けられている。

ガラスのピラミッド「HIDAMARI」
公園の中心施設で、管理事務所と休憩施設、ノグチのギャラリーなどがあり、冬には温室として機能し、夏には別に設けた貯雪庫に蓄えた雪を冷房に活用する。2002年完成。
モエレビーチ
3か所の吹き出し口よりさざなみ(水の波紋)を立てる浅い池(水深50cm)で、夏には水遊びができる。池には、サンゴが敷き詰められている。

モエレ山
南にある山。モエレ山は、公園のために人工的に造られた山で、東区唯一の山であり、標高62mである。付近は平地であるため、風のある日の頂上付近には、風が集まり強風となる。2004年完成。

プレイマウンテン
北にある山。プレイマウンテンは、遺跡のような外観の山。1996年完成。

ミュージックシェル
プレイマウンテン麓にある、半球に似た形の舞台。1996年完成。

海の噴水
カラマツ林が取り囲むように配置され、公園の核ともなる中央噴水である。噴水池の周囲は、直径48m。全体(カラマツ林)まで含めると直径80mにもなる。噴水の水柱の高さは、約25mまで噴出する。夜には、様々な色にライトアップされる。2003年に着工、2005年に完成した。

アクアプラザ
中央にある彫刻アクアプラザより水が湧き出し、全長約150mの浅瀬の川カナール(運河)をつくる。1998年完成。

テトラマウンド
プレイマウンテンの西北にあるテトラマウンドは、ステンレス柱による高さ13mの三角錐と、芝生の丘で構成された構造物である。1996年完成。
サクラの森
滑り台・シーソーなどの遊具施設がある広場。春になるとサクラも楽しめる。1993年施設の一部を一般解放。

フィールドハウス
スポーツ施設の受付所・休憩所。

野外ステージ
2000年完成。
これらは、みな独特の造形を持つ彫刻として眺めることができる。また公園内には、他に陸上競技場や野球場、テニスコート(15面)、無料駐車場が設置されている。但し、陸上競技場・野球場・テニスコートは有料であり、フィールドハウスで予約が必要である。また、自転車のレンタル(レンタサイクル)もでき、園内のサイクリングもできる。

平成18年度の入場者数は831,350人(前年比117.4%UP)となり、札幌市の主な観光施設では一番の集客場所となっている。札幌市も「観光スポットとして既に定着したものと考えられる」と述べている。

野口米次郎1875(明治8年)生まれ
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Leonie Gilmour1873年生まれ
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「レオニー」イサムノグチの母レオニーギルモアの生涯映画化
監督は、「折り梅」「ユキエ」の松井久子監督
レオニーのあらすじは、100年前のアメリカ、
ニューヨークでアメリカ人女性レオニ・ギルモアは、
フィラデルフィア 名門女子大ブリンマー大学を卒業し、
将来は、詩人か編集者になりたい夢を 
捨てきれぬまま教鞭をとっていた・・そして 日本から 
やってきた神秘的な 青年詩人ヨネ・ノグチ(野口米次郎)と
運命的に出会う。二人は、共同作業で 英語詩を作る・・
ヨネにとって「アメリカの声」となったのが レオニーだったのです。

文壇で成功をおさめた 二人は恋に落ち・・戦争がはじまり
二人の幸せな時間は、続かない・・「もうアメリカにはいられない。
日本に帰らばければならない」そう告げる ヨネに
レオニーは、「私妊娠したの」とヨネ・ノグチ(野口米次郎)に告げる
二人の幸せな時間は、続かなくなった・・
「嘘だ」「僕を「引きとめる嘘だ」
ヨネ・ノグチ(野口米次郎)はレオニーの元を去り 日本に帰国する。

レオニーは、未婚のまま 男の子の赤ちゃんを
人目を避けたカリフォルニアで産む
日本人差別の強い時代 アメリカにいるレオニーを
ヨネは「子供には 父親が必要」と引き寄せます。
残された子供と二人 で 日本の地を踏む決意を固めるレオニー・・

異国の地 日本にやってきたレオニーは、ヨネと再会し
父親 ヨネ が混血児の子供を「イサム」と命名する。
あたたかな手が さしのべられることは無く 
保守的で封建的な国のままだった。日本では
「 男性の横では無く 後ろを歩かなければならない」そして
ヨネに日本人の妻がいることを知ってしまう・・
ヨネは「日本では 男が2件 家を持つことは
珍しいことではない」と話すヨネの元を去り 
小泉八雲の妻セツ(竹下景子)と知り合い、身を寄せる。

そして 父親の名前を明かさぬ 第2子の女の子(アイリス)を出産する。
(この娘が のちにダンサーとなるエイルズ・ギルモア Ailes Gilmour)
第一次世界大戦が勃発する中 運命を潔く受け入れ 芸術家としての
才能に気付く 母親 レオニー
やがて 天才と呼ばれる子に育て上げる イサム・野口の原点 
母レオニーの波乱に満ちた、
59年生涯を壮大なスケールで描いた作品

Today's CD
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9曲目のDanny Boy のアカペラが最高にいい。

トリビュート盤は売れ線狙いが多い。たいてい、ビッグ・ネームのマイルス、エヴァンス、コルトレーンに捧げられた(名前を利用した?)ものが多い。しかし、このアルバムはベン・ウェブスターに捧げられている。素晴らしいテナー・プレーヤーだがコルトレーンのようなビッグ・ネームではないベンへのトリビュート盤というところにジャシンタの「真情」がある。ジャシンタのベンに対する愛情、真情が伝わってくる一枚。相変わらず「退廃的」で南国シンガポール出身とは思えない「暗さ」。そこがいい。ジャシンタの退廃を楽しみたい。(松本敏之)
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by takechihome | 2010-12-06 11:15
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Leica M8 summicron-M 28mm f/2.0 Asph F5.6 ISO320
北海道庁旧本庁舎(ほっかいどうちょうきゅうほんちょうしゃ)は、かつて北海道庁の本庁舎として建築された煉瓦造りの西洋館(国の重要文化財)である。「旧道庁」や「道庁赤レンガ庁舎」、「赤レンガ」などと呼ばれ、親しまれている。
館内は北海道開拓関係資料を展示・保存する北海道立文書館等として一般に公開されているが、一部は隣接する現道庁の会議室として現在でも使用されている。北海道(道庁)にとっての象徴的存在であり、広報番組などのタイトルにしばしば「赤レンガ」が用いられている。道庁前のイチョウ並木は大正14年、勅任技師名井九介(みょういくすけ)の指導により植えられたもの。
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札幌大通りIllumination
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by takechihome | 2010-12-03 21:16