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全ての劇場ではないが、劇場という場所が何をするところなのか、はっきりさせないまま“ハコモノ”貸し館、観賞用劇場が全国に乱立してしまった日本。

NPOカコア理事長の徳永高志は、「公共文化施設の歴史と展望」のあとがきでこう書いている。
1960年代以降、公共文化施設の急増。施設の一部はハードとしては明らかに劇場や音楽堂のスタイルをとりながら、興行を前提とせず、あくまでも公共の福祉と教育の普及を目的として設立されていたために、施設と運営実態と制度が齟齬をきたすことがしばしば起こった。こうした事態はそれらの施設の舞台に立つ人々や観客の意識にも大きな影響を与えている。舞台に立つ人は、施設を劇場・音楽堂として認識して、施設の性能や施設使用時の様々な制約に不満を持ち、観客の多くは舞台上で演じられるものが社会教育に類するものと思い教養を豊かにするものだと考えている。結果として、劇場や文化施設に対する認識を曖昧にした。それは法的根拠が強固な公民館やミュージアムにも大なり小なり当てはまる。施設を享受する側からすれば、法的根拠がどうあれ、また興行であれ社会教育であれ、その場所で自らが欲する事業が行われ手織り主体的に参加できるのであればかまわない、と思っている。

日本の劇場の調査研究をされた徳永氏は、特に公共施設での役割が公共の福祉が優先されまた制約も多い中、本来の文化創造発信という地域固有の文化資産を育成展開していくことができていない現状を憂いている。

2010年7月現在「劇場法」が提言され、2012年から博物館法施工規則が一部改正されようとしていて、文化施設を取り巻く環境が大きく変わろうとしている。

先日、愛媛県立美術館講堂で行われた、平田オリザ氏の講演で劇場法の話が最後に出てくる。
その中で感銘したのは、劇場には文化的包摂、様々な芸術文化の展開される場を利用し社会的弱者がで合える場、いわゆる文化的コミュニティーをっしての劇場の役割である。そこから創造発信していくことで地域文化ソフト資本を作り上げていくことこそ本来の文化的生活の基盤であると。

劇場法(仮称)のベースとなっているのは、芸団協が01年12月施行の文化芸術振興基本法を受けて02年5月に発足させた「劇場活性化プロジェクト」で、全国の公立文化施設を対象とした調査研究である。同プロジェクトは同法第25条に規定された「劇場・音楽堂の充実を図るための支援」、同法第7条に基づき定められた「文化芸術の振興に関する基本方針」で謳われた「法的基盤の整備」を具体化することを目指している。



平田オリザ氏の構想は、全国の公共ホールを3つにわけ

①創る劇場
②見る劇場
③交流施設・集会所的劇場

①の劇場には芸術監督・プロデューサー・教育担当をおく。
②の劇場は、①で創った優れた作品を招へいする。

当面は30~40とか、40~50館を①の劇場にし、最終的には200館位を①にするそう。
あらゆるジャンルを網羅するというより、ジャンルを特化した劇場にするそうである。

国の文化芸術予算は、こういった公共ホールに使い、個別団体には助成しない、そうである。


ネットから可児市文化創造センター館長兼劇場総監督のコメントを見つけたので、参考に。

地域劇場の現場からの提言 ―劇場法と芸術支援に向けての私見。 
可児市文化創造センター館長兼劇場総監督 衛 紀生朝日新聞大阪本社版3月19日付夕刊に掲載された「劇場法(仮称)」に関する記事が、劇団関係者を中心に大きな反響を巻き起こしています。五段抜きのかなり大きな紙面で、劇団関係者が反発しているのは、平田オリザ氏のコメントにある「現在の劇団への助成は赤字補填だから劇団は赤字体質からなかなか抜け出せず、不正も生みやすい」とする視点を提起しつつ、コメント総体として、公的助成を民間の劇団から公共的な劇場・ホールにシフトするというニュアンスが色濃く出ていることに対してだと思われます。補助金を公共劇場・ホールを通すことで財務の公開性を担保し、あわせて民間の芸術団体を間接的に支援する、という平田氏の考えるスキームと、文化予算の劇的な増額という彼の企図が充分に記事には反映されなかったきらいは否めません。

「劇場法」は、平田オリザ案では「創る劇場」、「観る劇場」、「地域に密着した文化・交流施設」の三層に分けて、「創る劇場」に大きな補助金を与えて作品創造やアーチスト・イン・レジデンス、コミュニティ・プログラムの実施を義務づけています。氏の主宰する青年団のウェブにアップされている「主宰からの定期便(http://www.seinendan.org/jpn/oriza/msg/index0.html)」では、「各館に5,000万円から5億円(平均1億円、総額200億円)程度の支援を行うことができれば、日本の舞台芸術環境を劇的に変えることができると考えています」と述べています。あわせて専門人材の配置を義務づけ、プロフェッショナルな芸術家、プロデューサーを中心に運営するかたちをとります。また、コミュニティへのアウトリーチやワークショップを義務づけています。「観る劇場」は、「創る劇場」で製作したものを鑑賞に供することを主な事業として、あわせて舞台を製作することも可能なものとしています。「文化・交流施設」は市民交流型施設で、貸館や市民参加型事業を中心とする施設です。「創る劇場」はプロフェッショナルな舞台創造と発信を企図しています。

芸団協案では、現在の公共文化施設を、「(1) 音楽あるいは舞台芸術を自ら作品創造を実施する機能」、「(2)音楽あるいは舞台芸術を招聘し、鑑賞活動を実施する機能」、「(3)公立文化施設を利用者に提供する機能」のおおよそ三タイプに類型化されるとして、それらは一般的には併存する機能であるとしています。ちなみに芸団協案では、公共ホールを「劇場・音楽堂」という用語で表現しています。例えば、「貸館中心( (3)のみの機能しか持たない公立文化施設)=集会施設」、「貸館と招聘事業( (2)と(3)の機能を備えた公立文化施設)=提供型劇場」、そして「作品創造中心で貸館や招聘事業も実施( (1)から(3)の機能の全てを備えた公立文化施設)=創造型劇場」ということになります。このほかに(4)コミュニティ・アーツセンターがあり、こちらの案でも、集会施設以外には専門家の配置は必要とされています。その詳細としては、

・公立文化施設経営統括責任者:施設運営と経営のための統括責任者
・芸術創造総括責任者 :芸術経営と創造・普及のための総括責任者
・劇場および技術運用総括責任者:劇場の運用と技術に係わる総括責任者

と提案しています。いわば、経営監督、芸術監督、技術監督という配置でしょうか。

平田案、芸団協案ともに、創造型の「劇場・音楽堂」には専門家の配置を要件としています。これは絶対な要件だと私も考えますが、問題のひとつは、どの程度の勤務実態を必要とするかではないでしょうか。現行の「芸術拠点形成事業」でも「芸術監督又はこれに準じた舞台芸術に関し相当の知見と経験を有するスタッフがいること」を要件にしていますが、審査をしていた者の一人として私見を述べさせてもらえば、基本的には常勤(フルタイム)であるべきだと思います。たとえ非常勤であっても、年間150日から180日程度の勤務を義務づけるべきと考えます。

「芸術拠点形成事業」の実態では、役所から派遣されている「課長」が芸術監督であったり、同一人物が申請してきた複数の公共ホールで芸術監督になっている事例もありました。推測の域を出ませんが、従来の非常勤エグゼクティブの常識的な実態としては年間10日前後という勤務ではないでしょうか。この程度の勤務日数では、地域の何もわかるはずもないと私は実感します。地域の特性や住民構成の実態とそこから来る市民の志向性等など、しっかりと地域に劇場・音楽堂が根付き、創客を進めるのならば、年に10日前後の勤務実態で何ができるのか、地域住民にとっては迷惑なだけではないか、と思うのです。フランス政府が任命する国立演劇センターの芸術監督には職務専念義務が課せられており、他の仕事に従事する(パリで演出するなど)は禁止されているのも根拠があってこそなのです。芸術家が好き勝手に自分の芸術的野心を達成するだけに地域を利用するなら、住民から乖離したプログラムがいたずらに繰り返され、結果として劇場・ホール運営が破綻するのは火を見るより明らかです。先の国立演劇センターに対する批判として、きわめて「パリ的である」というのがあります。芸術監督を国が任命していることと無縁な批判ではないように思います。どうしても「啓蒙主義的」、「権威主義的」な作品選定と製作になってしまうのでしょう。

私の例で言いますと、初年度は大学・大学院との兼務で、週3日間の勤務でした。当然初年度は私の計画した事業ではなかったのですが、チケット・システムの設計や劇団文学座と新日本フィルハーモニー交響楽団との翌年度からの地域拠点契約へ向けてのネゴシエーション、3年後、5年後のアーラの事業デザインをSWOT分析して策定しつつ、「強み」を生かしての翌年度事業の組み立てと価格政策も含めての劇団・音楽団体・プロモーターと交渉をすること、可児市の地域のデータと過去四年間のアニュアルレポートと財務を読み込み、「事情」と「現況」を体感することに週3日間の勤務時間は費やされました。地域の劇場・音楽堂に勤務する芸術監督や経営監督、技術監督は、常勤か、もしくは非常勤であっても、年間150日から180日はその地域に根を下ろした活動をすべきと考えます。「風にあたり、空気を吸い、食べ物をとる」と私は表現しますが、地域に身体ごと飛び込まなければ、地域住民の信頼は絶対に得られません。地域劇場・ホールをマネジメントするということは、ドラッカーを引くまでもなく、顧客たる地域住民の抱える課題解決に寄り添うことであり、言うまでもないが芸術家やプロデューサーの芸術的野心を実現することでは決してないと考えます。

次いで、地域の公共的な劇場と音楽堂への補助拡大に対する劇団側の危機感に対しての提案をしたいと思います。劇場・音楽堂への補助金は、滞在型で舞台創造をすることにより間接的に芸術団体を補助するわけですが、施設への補助の拡大に連動するかたちで、芸術団体への事業補助の削減があるに違いないという危機感を彼らが持つのは当然の成り行きではあると思います。

ただ、平田氏の「現在の劇団への助成は赤字補填だから劇団は赤字体質からなかなか抜け出せず、不正も生みやすい」という発言は至極もっともなことを言ったにすぎないと思っています。「赤字補填」という日本の芸術団体に対する補助のあり方は変えなければならない、という認識では関係者の大方が一致する、と私は考えています。私も平田氏と同じく、いまのままでは赤字体質は変わらないだろうし、申請時に補助率を見込んだ上で各費目を大きく膨らませて予算を計上するといった「テクニック」は今後も常態化したままになると思います。芸術団体の財務諸表がディスクローズされないのには「わけ」があるのです。公開するわけにはいかないのです。これは不健全な状態と言えます。その状態を生み出しているのが「赤字補填」という文化補助の在り方なのです。

そこで私は、「劇場法」を根拠とした地域の公的な劇場・音楽堂に対する補助を実施すると同時に、芸術団体には「マッチング・グラント」という補助制度を導入すべきではないかと思っています。「マッチング・グラント」は、事業収入、広告収入、助成収入、寄付収入などの総収入に対して、あらかじめ決められた比率で補助をする仕組みです。米国では実勢1:7くらいの比率で収入にあたる「1」はシードマネーの役割を果たすようですが、寄付社会の米国とは社会環境や税制度が違っているわけですから、私は日本においては50:50の比率で良いのではないかと思います。それも事業に対する補助ではなく、年間の収入総額に対する補助が望ましいと思います。つまり、団体助成です。したがって、その際の補助は使途を問わない「一括補助金」であるべきです。

これだと自助努力が補助額に反映するわけですし、当然ですが、自助努力のできない団体は市場から退場することになります。芸術団体は、芸術家の芸術的野心を実現するためのアーチストによる同人的な組織から、アーツマネジメント、アーツマーケティング、ファンドレイジングの必須な近代的事業体へと変質せざるを得なくなります。これは日本の演劇界の進展に大いに寄与すると考えられます。財務の透明性がこの「マッチング・グラント」の大前提です。国民から強制的に徴収した税金なのですから、透明性は当然のことです。現在の「赤字補填」の補助の在り方は、公的な資金を投入するうえで拭いがたい制度的矛盾があります。国民の合意に依拠する特定の法律を根拠とする「義務的補助金」ではありませんし、言葉は好きではありませんが、いわば「恩恵的補助金」に属するものである以上、財務の公表は当然ではないでしょうか。当然あるべき国民の「知る権利」はまったく担保されていません。マッチング・グラントで補助を受けるということは、公開性が担保されるということです。公正性が担保できるようになるということです。補助を受けた団体の財務諸表は本来国民に公開されるべきです。

このマッチング・グラントを公共劇場・ホールにも適用すべきとする意見があります。高萩宏氏が従来から唱えているものです。しかし、私は、これは「機会の均等性」からみて適切ではないと思います。高萩氏は米国でマネジメントを勉強していますから、マッチング・グラントに馴染みがあるとは思います。その後一貫して中央(東京)の劇場でマネジメントをしてきていますから、地域の経済構造に熟知していないのでしょうが、企業の本社機能の集積のある東京でのファンドレイジングと、支社機能しかない地域でのそれとはおのずと違ったものとなります。米国のように州ごとに大規模な事業体があり、しかも企業の社会的責任経営(CSR)が義務的な感覚として定着している環境と日本のそれは大きく異なっており、「機会の均等性」の点からいって、公共劇場・ホールへのマッチング・グラントは、公的資金による補助の公正な与件としては馴染まないと思います。一方、芸術団体の多くは、東京や大阪などの都市部を拠点としています。したがって、「機会の均等性=公正性」が担保できる点で、マッチング・グラントが一定の基準に依拠する団体の「評価」の指標になると思います。

とはいえ、繰り返しになりますが、マッチング・グラントを導入するには寄付税制の整備が大前提となります。むろん、仮に劇団、音楽団体が公益法人になるのなら自動的に寄付税制の恩恵にあずかれるのですが、あまり現実的ではないでしょう。それよりも、特定公益増進法人格をもっているメセナ協議会の「認定事業」を活用するのが実際的でしょう。ともかくも寄付税制の整備は必須です。

もうひとつの課題は、(1)劇場・音楽堂の階層化と、(2)どの芸術団体をマッチング補助の対象とするか、その「価値判断を誰がする」のか、という点ではないでしょうか。当然、誰かが価値判断をするのですから、どこまで行ってもその恣意性を免れることはできません。したがって、「誰が価値判断をするのか」はどこまで行っても論議は堂々巡りになります。私は、英国芸術評議会のような第三者機関を設けて「美的・芸術的評価」、「機会均等に関する評価」、「教育に関する評価」、「運営環境」、「他団体との比較」、「財務分析」、「財務管理」、「マネージメント、人事、研修」、「マーケティング、渉外、研究」などについて毎年度ごとに評価をすべきではあると思っています。(サウスウエスト地域芸術評議会 助成団体評価チェック項目より)。このような第三者機関をすぐに立ち上げるのは大変難しいと思います。現在の日本芸術文化振興会の基金部分を切り離して別法人格を取得し(公益財団法人格が最適ですが)、そこが文化芸術補助の一切を所掌するというスキームも考えられます。いずれにしても、10年程度のスパーンで、民間の芸術評価機関として構想すべきであると思っています。それまでは暫定的に、劇場・音楽堂については都道府県が、芸術団体は複数の統括団体からの代表者で構成された機関で評価をするかたちをとるしかないと考えています。

現行の芸術団体への補助金審査の実態は、審査する者と特定の芸術団体の「つながり」が審査結果を左右することも再々です。また、補助率を見込んで過剰に計上されている予算に疑義をもつ審査員があまりいないのも実態です。舞台や団体への評価を推挙の理由として述べる例は稀だといえます。したがって私は、財務に疎い評論家や舞台を見ない業界関係者による補助金審査は絶対に避けるべきだと考えています。そのような第三者機関で舞台・団体を評価するのに、平田オリザ氏は「ポスドク」を採用すると発言していますが、実際の高等教育現場で働いていた立場から言いますと、「ポスドク」程度の批評力と評価力ではこの重責は担えません。だいいち創造現場が承知しないでしょう。私は、指揮者、演出家、俳優、演奏家、技術スタッフが一時的に創造現場を離れるサバティカルとして評価機関に在籍するのが説得性はあるし、あわせて彼らに芸術的進化や技術的向上をもたらすと考えます。在外研修もよいですが、このようなサバティカルを設けるのも一案ではないでしょうか。あわせて、評価機関には、公認会計士、経営コンサルタント、教育専門家などを雇用すべきではないでしょうか。

劇場法に関することですが、地域の劇場を経営している立場からみると、「貸館事業」への中央の関係者の認識が「ゆるい」と感じています。東京の公立劇場も、実は「貸館事業」をしているわけで、その対象が東京周辺や大坂周辺ではプロの団体であるのに対して、地域劇場は市民のアマチュア団体であるという違いだけなのです。「文化振興」のための「貸館」であることに違いはありません。プロに貸館をする方が、アマチュアに「貸館」をするより程度が高いとは私には到底思えません。「貸館は貸館」です。水戸芸術館や静岡芸術劇場のように市民団体には貸し出さない例外的な公共文化施設もありますが、これはあくまでも「例外」に過ぎません。アーラはこの「貸館事業」に4億200万円を費やしています。いわゆるランニングコストです。対する「貸館事業」からの収入は3千万円あまりです。受益者負担はおよそ7.5%に過ぎません。およそ92.5%が公的資金によって補填されています。しかし、公共劇場・ホールにおける「貸館事業」は、大方の施設の設置目的にある「地域文化振興」に資するために必要な事業スキームではないでしょうか。劇場・ホールにとっては、経済的には割に合わない事業ですが、それによって市民みずからが文化的な環境を形成し、コミュニティを創成していき、文化的にも、技術的にも進化することを考えれば、地域の劇場・ホールが地域に貢献していることの証左と言える事業です。経営的には必要不可欠な事業と言えます。むろん、事業の内容や目的に対するプライオリティは設けなければならないと思います。怪しげなマルチ商法めいた団体に貸すことが公共の福祉に反するのは言うまでもありません。

公共劇場・ホールの外部環境の激変は、指定管理者制度、公益法人改革、この4月から施行された改正労働基準法(創造型の劇場・ホールの労働実態と乖離している)、そしてこの劇場法と、厳しい競争の時代であり、激烈な淘汰の時代に入っています。戦わざるものは撤退を余儀なくされる時代です。芸術団体もまた、競争と淘汰の時代にさらされ、勁草として生き残るためのサバイバルを生き抜くことが求められるのが、時代の趨勢ではないでしょうか。舞台や団体への評価はひとまず置くかたちの「護送船団方式」の芸術支援には終止符を打たなければならないと考えます。「生き残る」のであって、「生きながらえる」であってはならないと思っています。公共劇場・ホールも、芸術団体も、激しい環境の変化の中にいることをまずもって知らなければなりません。外部環境の変化に対しては、自らが変化することが必要です。そのうえで、ともに「疾風に勁草を知る」(激しい風の中では強い草だけが生き残る)というサバイバル時代に立ち向かわなければなりません。

Today's CD
イグジット・フォー・スリー
Dario Carnovale Trio
驚くべき若手新人ピアニストの登場!ボッラーニ以来の衝撃!キース・ジャレットやブラッド・メルドーで感じたあの煌きがここにも! ECM作品で知られるArtesuonoスタジオ録音!世界屈指のベーシスト、ユーリ・ゴルベフを迎え、潤沢を帯びた伊パレルモの夜をリリカル かつ逞しく描き出したピアノ・トリオ作品!
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by takechihome | 2011-02-20 21:12
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鹿島出版から小包が届く。開けてみるなり花田さんからの贈り物だとすぐ分かった。早速電話をしお礼を。花田氏とは2007年から関わった八幡浜市立日土小学校の保存再生の委員会でご一緒し、ずいぶん助けていただいた。松村正恒建築の信者的存在の人である。この本は、東京大学に提出された博士論文を日本学術振興会の助成を受けて出版された本である。651ページに及ぶ長論文をまとめられたことに、敬服したい。本のタイトルは「建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム」建築家松村正恒がたどった戦前を継承した戦後のもうひとつのモダニズム、特に1947年から1960年にかけて市役所在籍中の作品群を中心に論考したものである。
 建築資材の乏しい中、近代化を急ぐ都市部ではすでに鉄骨造、コンクリート造によるモダニズムが展開されていた時代、地方でのこの時期の松村の建築は、木造による手法で戦前のスタイルを引きずりながら模索されていたことを証明する作品群である。それは木造建築の伝統という形式を継承したものではなく、彼独自の手法でそれも八幡浜という田舎で、子どもたちや教育のことを形にしたものであった。

Today's song
Jachintha Autumn Leaves album から聴いてます。
youtube http://www.youtube.com/watch?v=uwHcxRVSdXI&feature=related

「Here's To Life」 とてもせつない歌ですが、いい曲です。
Shirley Horn youtube http://www.youtube.com/watch?v=RmoIkh6BC-g 
Joe williams  youtube http://www.youtube.com/watch?v=8g-m9SHp7KU もいいです。
初め作曲家のArtie Butlerはこの曲の最初にレコーディングする権利をMr. Sinatraに進呈した。しかし、何年も彼はレコーディングすると約束し続けていたが、どういう訳かレコーディングには至らなかった。Joe Williamsがその曲を欲しいと言った時、ButlerはSinatraに譲渡してくれるよう依頼し、曲はJoe Williamsのものとなった。作曲者のアーティー・バトラーは自分の父親にこの曲を捧げて書いたという記述があります。それをミスター・シナトラに歌わせようと考えたのかもしれません。
Joeはライヴで頻繁にその曲を歌ったが、当時のVerveの愚かなプロデューサーはその曲のレコーディングを許さなかった。イライラしたJoeは自身の啓発の為プライヴェート・レコーディングを行ったのだが、Joeのマネージャーで以前Shirley HornのマネージャでもあったJohn Levyが彼女にそのテープのコピーを渡してしまい、結局彼女が正規のレコーディングをする事となり、しかもGrammy賞等を取るなど大成功を納める事となった。(Joel E. Seagelの書いた記事より)



【 Here’s To Life 】
             Lyrics;Phyllis Molinary, Music;Artie Butler

「♪ No complaints and no regrets
       不平も無いし、後悔もしていません
   I still believe in chasing dreams and placing bets
       私はまだ信じて夢を追いかけ、その夢に賭けているのです
   And I have learned that all you give is all you get
       あなたは得たもの全てを私に与えてくれていたんですね 
   So give it all you’ve got
       そう、あなたは自分が得たもの全てを私に与えてくれたのです

   I had my share, I drank my fill
       それに比べ、私は自分の取り分をもらうと、自分だけで目一杯飲んでいたのです
   And even though I’m satisfied, I’m hungry still
       それで満足すべきなのに、まだ満ち足りていないと思っていました
   To see what’s down another road, beyond a hill
       丘の向こうにつづいているもうひとつの道を見て
   And do it all again
       全てをもう一度やり直そうと思ったのです

   So here’s to life
       だから、ここから人生が始まるんです
   And every joy it brings
       あらゆる喜びをもたらしてくれる人生がね
   Here’s to life
       そう、ここから人生が始まるんです
   To dreamers and their dreams
       夢見る人たちやその夢のために

   Funny how the time just flies
       どうして時は速く過ぎてしまうでしょう、不思議ですね
   How love can go from warm hellos to sad goodbyes
       どうして愛は暖かい出会いから悲しい別れへと移ってしまうのでしょう
   And leave you with the memories you’ve memorized
       どうして愛はあなたに想い出を残して去っていってしまうのでしょう
   To keep your winters warm
       あなたを暖かい気持ちにしてくれたあの冬の思い出をのこして
   But there’s no yes in yesterday
       でも、昨日存在していたものは、もうここにはありません
   And who knows what tomorrow brings, or takes away
       明日が何をもたらして何を持ち去るかなんて誰が分かるというのでしょう
   As long as I’m still in the game, I want to play
       私がまだこの人生ゲームに参加しているならば
   For laughs, for life, for love
       笑いや人生や愛のためにゲームをしたいと思うのです

   So here’s to life
       だからここから人生が始まるんです       
   And every joy it brings
       あらゆる喜びをもたらしてくれる人生がね
   Here’s to life
       そう、ここから人生が始まるんです
   To dreamers and their dreams
       夢見る人たちやその夢のために
   May all your storms be weathered
       あなたを襲ってくる全ての嵐を切り抜けて
   And all that’s good get better
       良いものはますます良くなっていくでしょう

   Here’s to life
       ここから人生が始まるんです
   Here’s to love
       ここから愛が始まるんです
   And here’s to you
       ここからあなたのもとへ ・・・
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by takechihome | 2011-02-13 00:50
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http://www.kkl-luzern.ch/navigation/top_nav_items/start.htm?client_locale=en_GB
The Culture and Congress Centre in Lucerne (or KKL for Kultur- und Kongresszentrum Luzern) is a multi-functional building with a concert hall that is esteemed for its high-profile acoustics. It was built according to the plans of the architect Jean Nouvel and was inaugurated in 1998 with a concert by the Berlin Philharmonic Orchestra under the direction of Claudio Abbado.

2004年4月 Jean Nouvelの設計した、LuzernのThe hotel に宿泊、ホテルでコンサートのチケットが取れたのでミラノに続いてnascaの八木さんと鑑賞。現代音楽の作曲家による指揮で、ホールの音響は雄大で広がりのある少しライブな音場であったと記憶している。
 幕間には日本と違って、バーでワインを飲む人、外のテラスに出て巨大な庇に妖しく映し出された映像を鑑賞する人(Jean Nouvelは、建築自体を情報の発信のtoolにしている。コペンハーゲンのブルーボックスでは、建物の周囲に覆われたブルーの膜に大型プロジェクターで映像を映し出している。)、建物の外への出入りは自由で、監視員はまったくいない。

フランス人有名建築家のジャン・ヌーヴェルJean Nouvelが設計した、 湖畔にたたずむスタイリシュな複合文化センター「ルツェルン・カルチャーコングレスセンターKKL」の中にあるのは、世界トップレベルを誇る音楽祭として有名なルツェルン・フェスティバルのメイン会場としても知られるコンサートホール。小窓や回廊の部分など、船をモチーフにしたデザインは、その美しさだけでなく、計算されつくした音響効果の素晴らしさでも高い評価を得ています。 目の前に広がる湖や山々を借景にしたホール前やホワイエの雰囲気も最高です。そのほか、KKLの中には、主にポップスやロックなどのライブコンサートがおこなわれるホールもあります。

Today's CD
エヴリディ・バッハ~究極のバッハ・ベスト
オムニバス(クラシック) (アーティスト), モルモン・タバナクル合唱団 (アーティスト), バッハ・コレギウム・シュトゥットガルト (アーティスト), バッハ (作曲), フィラデルフィア管弦楽団 (演奏)他
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毎日音楽を楽しもうという趣旨のシリーズのバッハ編。入門的なベスト盤だが、オーマンディ、ストコフスキー、ウェーベルン、エルガーなどの編曲によるオーケストラ版など、マニアのツボをくすぐる音源も収録されているところがミソ。
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by takechihome | 2011-02-11 20:59
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http://www.teatroarcimboldi.it/index.php

2004年恒例のヨーロッパツアー コモ湖周辺のジュゼッペテラーニの生誕100年祭とバーゼルのヘルツオーグドムーロン、ルッツエルンのジャンヌーベル特集のツアー 煩悩多き仲間たちは、モンテナポレオーネ通りのshopping は欠かせない。
 スタジオnascaの八木さんとルッツエルンの文化会館に続いてミラノスカラ座のチケットを申し込むも、あいにくスカラ座は改修中。仕方なくミラノ郊外のスカラ座の仮説劇場アルチンボルディ劇場の演奏会チケットを買ってクラシック鑑賞。指揮はヴァレリー・ゲルギエフ、おおらかな演奏ぶりだったことを覚えている。

 今回のスカラ座の改修は、約1000億リラ(約60億円)を掛ける大がかりなもの。
パオロ・ソラチェ広報部長によると、ステージの裏側のスペース拡大など舞台装置に関する抜本改良と、 スプリンクラーの整備などの消防・安全対策に重点が置かれる。
とくに、ステージの裏側は、場面に合わせて入れ替えるセットなどを仕込んでおくのに利用する重要な空間。
18世紀末に建てられたスカラ座の場合、 より大がかりなセットを利用する最近の演出傾向に対して狭すぎ、足かせとなっていた。
また、セットを動かすための装置などは1930年代に導入された古いもので、
演出家や裏方などからも改修の必要性が叫ばれていたという。
 一方で、改修に当たって「コンピュータ化は最小限に」(ソラチェ部長)と伝統重視の姿勢は貫く。 また、ナポレオンや、イタリアのサボイア旧王家、歴代法王が訪れたロイヤル・ボックス席などは、汚れを落とす程度にとどめたという。

Today's CD
ヒラリー・ハーン デビュー! バッハ:シャコンヌ
録音:1996年6月、12月、1997年3月
ボルティモア出身の17才(当時)のヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーンのデビュー・アルバム。その恐ろしい程の才能とパーフェクトと呼ぶに相応しいテクニックをこの若さでひっさげてのデビューは、非常に大きな衝撃として我々の胸に刻まれました。初来日でも噂に違わぬそのポテンシャルを遺憾なく発揮、その凄まじいまでの実力を見せつけ、各メディアにより絶賛の嵐を受けました。
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by takechihome | 2011-02-09 18:25
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photo by wikipedia

About Cittaslow Organization
The Movement of cittaslow was born in 1999 through the Paolo Saturnini’s brilliant intuition , past Mayor of Greve in Chianti, a little town of Tuscany.

The new idea of considering the town itself and thinking of a different way of development, based on the improving of life quality , moved him to spread his thoughts all over our country. Fastly his ideals were endorsed by Mayors of towns of Bra ( Francesco Guida) , Orvieto ( Stefano Cimicchi) and Positano ( Domenico Marrone )as well as they met later the president of slow food Carlo Petrini’s support. The main goal of cittaslow , was and still is today, to enlarge the philosophy of Slow Food to local communities and to government of towns, applying the concepts of ecogastronomy at practice of everyday life.

Municipalities which join the association are motivated by curios people of a recovered time, where man is still protagonist of the slow and healthy succession of seasons , respectful of citizens’ health , the authenticity of products and good food, rich of fascinating craft traditions of valuable works of art, squares, theaters, shops, cafés, restaurants, places of the spirit and unspoiled landscapes, characterized by spontaneity of religious rites, respect of traditions through the joy of a slow and quiet living.
http://www.cittaslow.net/

20世紀は、世界各地でグローバリズムを背景にした都市の肥大化や画一化が進んだ。そこで近年、これを見直す「まちづくり」が盛んになった。約10年前にイタリアで誕生したスローシティー運動(伊語でCittaslow, チッタズロー)もそのひとつ。地域性や持続可能性を重視して、住民が主体的にまちづくりにかかわろうとする運動だ。日本も近年、まちづくり行政の理念を縮小均衡にシフトしている。したがってこの運動から学べる教訓も多いものと思われる。

 グローバル化や都市化を背景とする地方都市の衰退は、世界各国で共通する現象といえる。かつてはイタリアもこの問題に直面していた。1960年代のイタリアでは、冷害や輸入農作物の影響で、農業が大きなダメージを受けた。そこで、職を失った農業従事者が都市に移住。地方都市の過疎化が進行した。

 ところが20世紀末のイタリアでは、逆に地方都市を見直す機運が高まった。具体的には、都市生活者や外国人による地方移住が盛んになったのだ。これには様々な要因がある。まず第1に地域社会に根ざした協同組合が大きな力を持っており、これが地方都市での雇用を下支えしたこと。また第2には中小企業の連携的組織が、地方都市の産業力や情報発信力を高めていたことがある。

 この動きにうまく合致したのが、かの有名なスローフード運動だった。運動が生まれたのは1986年。創始者はイタリア北西部にある小都市ブラ(Bra)でジャーナリストとして活動していたカルロ・ペトリーニ(Carlo Petrini)氏。運動のきっかけは、マクドナルドによるスペイン広場(ローマ)への出店計画に抗議するキャンペーンだった。同運動ではファストフードを「グローバル化を象徴する存在」「地域の食文化を脅かす存在」として捉え、そのアンチテーゼとしてスローフードという造語を生み出した。この運動が地域文化の見直しという大きな流れを作った。

そしてスローフードに始まるスロームーブメントは、食以外の分野にも拡大していくことになる。つまり「地域文化に根ざした多様で自律的な社会」を模索する運動について、スローの語が冠されるようになったのだ。日本で独自に定着したスローライフ概念も、この一種と捉えることもできる。

 その意味でスローシティーは、まちづくり版のスロームーブメントだと言える。母体となったのは、ほかならぬスローフード運動だ。1998年にイタリア中部の小都市オルビエト(Orvieto)でスローフード運動が年次総会を開催。そこに集まったオルビエト、ブラ、グレーベ・イン・キャンティ(Greve in Chianti)、ポジターノ(Positano)の各首長が意気投合したところから、組織的な運動が始まった。運動の中心となったのは、当時オルビエトの首長だったステファノ・チミッキ氏(Stefano Cimicchi)である。

 スローシティーの概念をひと言で説明するなら「住民にとって住み心地のよい小都市づくり」となる。地域における独自文化や伝統産業、さらには持続可能性などを重視したうえで、住民が主体的に都市や産業の「舵取り」にかかわれる環境をつくる。その軸足になるのが、住民自身が考える「生活の質や楽しさ」だ。スローシティーは、住民の感性を重視した、ボトムアップ型のまちづくりとも言える。

 同運動の実体は、世界各国の小都市をネットワーク化した協会組織である。参加資格は人口5万人以下の都市であること、州の首都でないこと、スローフードの加盟都市であることなどだ。またこのほかに大項目で6個(小項目で55個)ある指標についての評価も実施。これらをまとめたレポートで一定以上のスコアを満たすことが認証の条件となる。なおこの認証は3年毎に見直す。

 スローシティーに求められる55の指標とは次のようなものだ。まず必須項目として環境政策(代替エネルギーへの助成など)、社会資本政策(緑地整備など)、生活の質(歴史的美観の保持など)といった指標が並ぶ。また推奨項目として地元生産物の活用(食育プランなど)、ホスピタリティー(多言語による標識の整備など)、住民意識の向上(啓蒙プログラムの実施など)といった指標も並んでいる。

 協会に参加する都市は、2008年10月時点で16カ国・100都市以上にのぼる。欧州の都市が多く、本家イタリアのほか、ドイツやイギリスなどにある小都市も参加している。また欧州以外にもオーストラリアや韓国の小都市も参加している。世界遺産である海岸や映画『アマルフィ~女神の報復~』などで知られるイタリアの小都市アマルフィ(Amalfi)も、スローシティーのひとつだ。

では協会への参加によって、各都市ではどのような変化が生じたのだろう。例えば設立時の参加都市のひとつグレーベ・イン・キャンティでは、まず協会設立前の1980年代に外部からの移住が盛んになった。そこで税収が少ない同都市では「都市の規模を拡大せずに生活の質を高める」という政策を選択。その政策に合致したことからスローシティーに参加することになった。協会への参加後は、スローシティー憲章に基づくまちづくりを実践。住民の意見を聞きながらゴミ収集のルール化、歩行者道路の整備、騒音防止対策、町並みの修復などの事業を行ったという。これは不動産価値の向上にも繋がった。

 これら一連の活動で注目すべきなのは、ネットワーク化した組織が相乗効果をもたらしている点だろう。スローフードもスローシティーも、互いに異なる文化を持った都市の対等な連携が活動の軸となっている。これにより大組織としての強い情報発信力と、各都市の強い個性とが共存可能になった。このことから画一化にも標準化にも頼らない「もうひとつのグローバル化」の可能性も感じさせる。

 さてスローシティーに似たトレンドは、日本にも存在する。そもそも日本の都市行政が近年では「均衡ある発展」から「縮小均衡的なコンパクトシティーの実現」に移行している。まちづくり三法(都市計画法、大店立地法、中心市街地活性化法)の2006年改正(一部指針改定)でも、歩ける範囲を生活圏とする小都市の整備を志向している。都市の無秩序な拡大(スプロール現象)を防ぐ観点では、スローシティーとも共通する部分がある。

 一方、日本版スローシティーを提案する動きもある。都市問題の研究者、久繁哲之介氏は書著『日本版スローシティ』(学陽書房、1998年4月)などでこれを提唱。対象都市の人口を5万人以下に制限しないこと、食文化に限らず独自文化を持つあらゆる都市を対象にすること……などの条件を掲げ、それらの振興可能性を論じている。同氏が提唱するスローシティーの条件にはヒューマニズム、スローフード、市民の主体的な関与、交流、持続性といった項目が含まれる。この定義に従うと、地方都市のみならず都市に内在する過疎地区なども、議論の対象に含めることができる。

 世界のまちづくり手法を概観すると、そのトレンドが「似た方向に」変化していることが分かる。具体的には住民主体、縮小均衡、文化の尊重、差異を内包できるネットワーク、持続可能性といった方向性だ。このうち日本のまちづくりで圧倒的に足りないと思われるのは、住民主体やネットワーク化などの観点だと思われる。地方自治における財源や権限の問題のみならず、地域の精神的自立もこれまで以上に求められる時代であるようだ。

もり・ひろし
新語ウォッチャー。1968年、鳥取県出身。電気通信大学を卒業後、CSK総合研究所で商品企画などを担当。1998年からフリーライターに。現在は新語・流行語を専門とした執筆活動を展開中。辞書サイト・新聞・メルマガなどで、新語を紹介する記事を執筆している。NPO法人ユナイテッド・フィーチャー・プレス(ufp)理事。

by BIZ COLLAGE

スローシティの評価基準:
  ・環境保全
  ・市民に便利な街のインフラ
  ・都市計画
  ・地域産物の利用流通促進
  ・観光・保養客へのもてなし
  ・市民の意識
  ・景観の質 など

Today's CD
イマージュ クラシーク~バッハ
オムニバス(クラシック) (アーティスト), オーマンディ(ユージン) (指揮), メルステッド(リンダ) (演奏), ブリュッヘン(フランス) (演奏), アントルモン(フィリップ) (演奏)他
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by takechihome | 2011-02-06 20:17
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amazonからslowfood of revorution & slow food THE CASE FOR TASTEが届く

Slow Food is an international movement founded by Carlo Petrini in 1986. Promoted as an alternative to fast food, it strives to preserve traditional and regional cuisine and encourages farming of plants, seeds and livestock characteristic of the local ecosystem. It was the first established part of the broader Slow movement. The movement has since expanded globally to over 100,000 members in 132 countries. Its goals of sustainable foods and promotion of local small businesses are paralleled by a political agenda directed against globalization of agricultural products.

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スローフード(Slow Food)とは、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動、または、その食品自体を指すことば。日本の伝統的な和食や郷土料理への回帰とは限らない。また、「地産地消」と同義ではない。

ファーストフード(ファストフード)というビジネスフォーマットと対立的なものだと考えられていることが多いが、これは間違いである。ファーストフードとの対立概念としてスローフードを考えると、理解に誤りを犯すことになる。

日本の運動においては、伝統的な外国の料理をも指す。

1980年代半ば、ローマの名所の1つであるスペイン広場にマクドナルドが開店した。このことが、ファストフードにイタリアの食文化が食いつぶされる、という危機感を生み、「スローフード」運動に繋がったという。

1986年、イタリア北部ピエモンテ州のブラ(Bra, 「ブラッ」と表記する場合もあり)の町で「スローフード」運動が始まった。当時、『ゴーラ』という食文化雑誌の編集者だったカルロ・ペトリーニが、イタリア余暇・文化協会(ARCI=アルチ)という団体の一部門として、「アルチ・ゴーラ」という美食の会を作ったのがはじまりである。アルチ自体は、120万人以上の会員を擁する、草の根的なイタリアの文化復興運動組織である。土着の文化、つながりをベースにしており、スローフードの理念と密接なかかわりをもつ。

スローフードの理念はジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランの著書が大きく影響した。1989年のマニフェストに「人は喜ぶことには権利を持っている」というコンセプトを発表し、また、同年パリで開かれた国際スローフード協会設立大会でのスローフード宣言を経て、国際運動となった。

1996年のスローフード法令には、具体的な活動における3つの指針が示されている。

守る:消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワイン(酒)を守る。
教える:子供たちを含め、消費者に味の教育を進める。
支える:質のよい素材を提供する小生産者を守る。
その後、美食とは何かという問いかけから、伝統の食事、素朴でしっかりとした食材、有機農業、健康によいものに関心が向かうようになり、一挙に人の注目を惹くようになってきた。その後、日本にも紹介され、各地に支部や共鳴者を集めている。世界中に83,000人以上の会員を擁するという。

島村菜津の著書『スローフードな人生』の出版後に日本でも一般に知られるようになった。2000年頃から浸透しはじめ、2004年10月には正式にスローフードジャパンが設立された。

日本におけるスローフード運動の取り組みのひとつには、各地方で伝統的に栽培され、食されてきた固有の品種や加工食品のうち、希少で消滅しようとしている「食」を守ろうとする運動として、「味の箱舟(アルカ)」がある。

アジアで初めて、日本人の武富勝彦氏がスローフード大賞を受賞。
wikipedia

NHKプレミアム8<人物> 未来への提言「スローフード協会会長 カルロ・ペトリーニ」を先日BSで観る。
イタリア・スローフード協会を創設、その思想を世界に広めたカルロ・ペトリーニ氏に小説「食堂かたつむり」の著者小川糸さんがインタビュー みんなが幸せになる食とはなにか?
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トルコ料理店でのアルバイトを終えて家に戻ると、部屋の中が空っぽになっていた。突然、同棲していた恋人に何もかもを持ち去られ、恋と同時にあまりに多くのものを失った衝撃から、主人公の倫子はさらに声をも失う。たったひとつ手元に残ったのは、祖母から譲り受けたぬか床だけ。山あいのふるさとに戻った倫子は、小さな小さな食堂を始める。一日一組のお客様だけをもてなす、決まったメニューのない食堂。次第に食堂は評判になるが――五感をくすぐる瑞々しく繊細な描写と、力強い物語運びで話題を呼んだデビュー作。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
小川 糸
1973年生まれ。作詞家・春嵐として音楽制作チームFairlifeに参加

Today's CD
Haven't we met?
エミリー・クレア・バーロウ
カナダの実力派女性ヴォーカリスト、エミリー・クレア・バーロウの7枚目のアルバム。可憐で心癒される歌声、高速スキャット、自身によるプロデュース&アレンジ、彼女の魅力がたっぷり詰まった作品です
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by takechihome | 2011-02-06 00:04
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久万高原 20110202


小さい頃、「この国ヤバイぞ!」って思った。
「けっこう男社会で、村社会でヤバイじゃん!」って思った。皆が言ったことに「ウン」ってうなずかないと、いじめられたりするんだな・・・・って言うのが俺の中で、先入観・トラウマである。

10人のうち8人に合ううシステムを作っても、2人は決定的に会わない。その「合わない感」を、小さいときから感じていた。生きづらいというか、普通の人が見えないものも、見ているんだよね。つまり、そこに「線」があるということ。」「誰でも・・・」じゃ無いじゃん。「平等・・・」じゃ無いじゃん。

既成概念を壊していく・・・それぐらいしか無い。

アーティスト
日本の場合、人付き合いが旨くて営業もできないとアーティストではいられない。
でも、そんなのアーティストじゃないと思う。

常識だの世間だの、そういう実は余分なものに囚われてないから本当にきれいなものが見えてるんだと思う。

逃避行
人間そんなに強くないからさ、誰にだって必要だよね。逃げる場所。心の中にもね・・・・。そういうのが無いと息が詰まって苦しくなって、人も自分も傷つけちゃったりすると思うんだ。たまには自分を休まないとさ。まあ俺のそんな生易しいものじゃなかったけど・・・。
学校からも、親からも、仲間からも、彼女からも、日本からも、ありとあらゆる現実と俺を縛ろうとする全てから。とにかく逃げて逃げて。俺が海外を旅してたのは、自分探しやポジティブさからじゃなくて、日本での居場所を自分でなくして、ただそこから脱出したかったからかもしれない。

小林崇 TREEDOM The road of freedom から

小林は、社会から離脱し、木の上から見下ろしながら、本来の人としての行き方、社会のこと、環境のこと、人間と自然との付き合い方のこと、現代社会に合わない人も楽しめる世界を、自分と向き合うために、全国に出かけ、ツリーハウスのすばらしさを通して協働者と分かち合っている。

Does not the eagle scorn the earth &despise the treasures beneath?
「ワシは大地をさげすみ」William Blake

Today's CD
Dream
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by takechihome | 2011-02-03 00:37
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3日は節分の日、伊予では、たらの幹を短く切りトベラと日干し鰯を括り戸口につるす風習がある。
幼少のころは、祖母が焙烙で豆を炒って豆まきに備える。寒い夜玄関に出て親父と鬼は外、福は内と2度3度撒いた。家に入ると歳の数だけ一升枡に入った豆をいただく、最初は歳を数えていただくが、こっそり腹いっぱい炒り豆をほうばっていたものだ。
 今年は、私にとって厄年、気をつけて歳を越さないと。

 節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。
 季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われる。

節分の行事は宮中での年中行事であり、延喜式では、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾っていた。これは、平安時代頃から行われている「追儺」から生まれた[1]。『続日本紀』によると706年(慶雲3年)にこの追儀が始まり、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。『臥雲日件録(瑞渓周鳳)』によると、1447年(文安4年)に「鬼外福内」を唱えたと記されている。近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった[1]。一部の地域では、縄に柊やイワシの頭を付けた物を門に掛けたりするところもある。

日付け
節分は立春の前日であり、立春は太陽黄経が315度となる日である。このように、間接的に天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできない。なお厳密には、基準とする標準時によっても節分の日付は異なるが、日本以外では節分を祝う風習がないので、旧正月のように国による日付の違いが話題となることは少ない。

豆撒き
豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べる。また、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもある。豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある[1]。寺社が邪気払いに行った豆打ちの儀式を起源とした行事であり、室町時代の書物における記載が最も古い記載であることから少なくとも日本では室町時代以降の風習であると考えられる。初期においては豆は後ろの方にまくことが始まりだった。

使用する豆は、お祓いを行った炒った大豆 (炒り豆) である。北海道・東北・北陸・南九州では 落花生をまく(大豆よりも回収し易く、殻ごと撒くため地面に落ちても食べられる、等の利点がある)。

豆を撒く際には掛け声をかける。掛け声は通常「鬼は外、福は内」であるが、地域や神社によってバリエーションがある。鬼を祭神または神の使いとしている神社、また方避けの寺社では「鬼は外」ではなく「鬼も内(鬼は内)」としている[1]。家庭内での豆まきで、「鬼」の付く姓(比較的少数だが「鬼塚」、「鬼頭」など)の家庭もしくは鬼が付く地名の地域では「鬼は内」の掛け声が多いという。炒った豆を神棚に供えてから撒く地方もある。

節分の時期になると、多くのスーパーマーケットでは節分にちなんだコーナーが設けられ、その中で福豆(ふくまめ)として売られている。厚紙に印刷された鬼の面が豆のおまけについている事があり、父親などがそれをかぶって鬼の役を演じて豆撒きを盛り上げる。しかし、元来は家長たる父親あるいは年男が豆を撒き鬼を追い払うものであった。

小学校では5年生が年男・年女にあたる。そのため、5年生が中心となって豆まきの行事を行っているところも多い。神社仏閣と幼稚園・保育園が連携している所では園児が巫女や稚児として出る所もある。大きな神社仏閣では、節分の日に芸能人・スポーツ選手・等が来て豆をまくようなことも行なわれ、イベント化しているとも言える。

以前は豆のほかに、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたというが、豆撒きとなったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒の大きさが適当だったことによる。また炒り豆を使用するのは、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものである為、撒いた豆から芽が出ては不都合であったためであるという。
wikipedia


トベラ (トベラ科 トベラ属 常緑低木)  
 枝を切ると臭いがするため、節分にイワシの頭などと同様に魔除けとして戸口に掲げられた。そのために“扉の木”と呼ばれ、転訛して“トベラ”となった。
(広辞苑)昔、除夜に海桐花とべら の枝を扉に挟んで邪気を防いだ。又節分(2月3日)にこの木を燃やして豆を炒った。これを海桐花焼とべらやき という。

Today's CD
奇跡のニューヨーク・ライヴ
「世界のオザワ」完全復活!2010年12月14日、ニューヨークのカーネギーホールが感動の嵐で震えた!食道がんから復活した小澤征爾氏が音楽の殿堂・ニューヨーク、カーネギーホールにて得意のブラームスの交響曲第1番を熱演!NYの聴衆も拍手大喝采の感動のライヴを収録。完全復活にかけた小澤の情熱が熱くホールを包み込んだ奇蹟のライヴ盤、緊急発売
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昨夜31日高島屋ローズホールで山本裕康氏のチェロコンサートを鑑賞、演奏会のあと山本氏が私のアトリエに、深夜1時過ぎまで楽しいお話をさせていただきました。カーネギーでの公演は、まさしく小澤氏にとって奇跡のような指揮でしたよと。島田真千子さんのメールにも小澤氏以下風邪を引いた上に、腰痛を抱えての指揮は壮絶なものだったと。ブラームスの1番だけに余計に感じるのかも。少しテンポが早かったという話も出ておりましたが。
 
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山本氏に数々あるコンサートホールの中で、音響のいいホールはどこでしたかとお聞きすると、フィンランドのテンペリアウキオ教会Temppeliaukion kirkkoがよかったですと、アンサンブルの演奏をされたとか、ちょうど私も昨年訪れたばかりでしたので記憶には新しいものがあり、話が弾みました。
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 教会は大岩をくりぬいた中に造られているが、上部側面にガラスがはめ込まれており、自然光が入り込むようになっていて明るい。教会内壁はくりぬいた岩盤がそのまま使われていて音響効果が優れており、しばしばコンサートホールとしても利用される。内壁は当初むき出しで残す予定は無かったが、音響学者マウリ・パリョと指揮者パーヴォ・ベルグルンドの助言により、このままの状態で使われることとなった。岩には氷河時代に削られて出来た模様を見ることが出来る。
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by takechihome | 2011-02-01 22:52