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DAY BY DAY

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my life

2000年のプロムス ラストナイトコンサートは特に印象に残っている。
アンドリューデイビスがBBC最後の指揮であった。デビューしたばかりのヒラリーハーンの演奏も若々しく素晴らしい。アンコールは、エルガーの威風堂々、イギリス国家で盛り上がる。

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ザ・プロムス(The Proms BBCプロムスとも)はイギリス・ロンドンで毎年夏開催される、8週間におよぶ一連のクラシック音楽コンサート・シリーズである。

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ロンドンのサウス・ケンジントン近隣、シティ・オブ・ウェストミンスターにあるロイヤル・アルバート・ホールを中心に100以上のイベントが行われる、世界最大のクラシック音楽祭である。

プロムス(Proms)は「プロムナード・コンサート」の略であり、その語はこのコンサート開始当初に聴衆がそぞろ歩いていた(promenading)という習慣に由来している。今日では噴水のオブジェが中央に設けられたギャラリー席に及びアリーナ席の立見区画(チケットは通常席と比べて廉価である)での聴衆の行動を"Promming"なる語で形容したりもする。一部の例外を除けば、こうした立見席のチケットはコンサート当日のみの発売となっているため、人気演奏家あるいは著名作品の演奏においてはチケットを求める長い列ができることになる。

足繁く通う「プロマー」は当日売りでなく、1シーズン通し、あるいは半シーズン通しのチケットを購入することも可能だが、立見区画内での立ち位置の指定まではできない。プロマーの中には皆勤に執心する人たちも多く、全コンサートを聴いた記念のバッジあるいはTシャツを身に着けている者もいる。1997年のBBCのテレビ・ドキュメンタリー「モダン・タイムス」ではこうした熱狂的聴衆を特集した。

歴史
最初の「プロムス」コンサートは1895年8月10日、ロンドン、ランガム・プレイスにあったクイーンズ・ホールで開催された。企画者、ロバート・ニューマンの考えは、通常はクラシック音楽のコンサートを訪れないような人々も、チケットが安く、より親しみやすい雰囲気であれば魅力を感じてくれるのではないか、というものだった。こうして当初は「Promenading(歩き回る)」だけでなく、飲食および喫煙がすべて自由とされた。

そして、指揮者ヘンリー・ウッドこそがこのプロムスを有名にした最大の立役者だった。彼は第1回のコンサートより指揮者として参加しており、回を重ねるに従ってレパートリーの拡大に貢献した。1920年代までには、それまでのよりポピュラーで、かつ演奏の容易な曲目から、同時代の作曲家、例えばドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス、ヴォーン・ウィリアムズなどの作品が演奏されるまでになった。ウッドの功績を記念して、彼のブロンズ製の胸像はプロムス開催期間にはオルガンの前に据えられる(本来は王立音楽アカデミーに収蔵されているもの)。

1927年には、BBC(クィーンズ・ホール向いのブロードキャスティング・ホールに本部があった)がプロムスの運営を引き継いだ。1930年にBBC交響楽団が組織された際には、それがプロムスの中心的オーケストラとなった。この頃は、月曜日はヴァーグナー、金曜日はベートーヴェンといったように特定の曜日に特定の作曲家を特集するような編成がとられており、また日曜日は休演となっていた。

1939年9月にイギリスが第二次世界大戦に参戦すると、戦時体制下に置かれたBBCは運営から手を引くことになったが、プロムス自体は民間のスポンサーを得て続行した。これは1941年に、クィーンズ・ホールが空襲で破壊されるまで継続する(現在同所にはセント・ジョージズ・ホテルが建っている)。翌1942年にはプロムスは現在と同じロイヤル・アルバート・ホールに移動、そしてBBCが再び運営に当たることになった。

第二次世界大戦後の経済困窮時も継続され、1950年代より、客演オーケストラ数は次第に増加、また1963年のレオポルド・ストコフスキー、ゲオルグ・ショルティ、カルロ・マリア・ジュリーニなど国際的な指揮者、またモスクワ放送交響楽団を初めとしてイギリス国外オーケストラの出演も活発となった。

中心的なレパートリー演目、古典的な曲目と並んで、プロムスでは特に委嘱した新作音楽の初演も数多く行われている。よりよい形態を目指しての改革も継続中であり、近年では開演前のトーク・ショー、ランチタイムの室内楽コンサート、子供のためのプロムス、プロムス・イン・ザ・パークなどの新企画が登場している。イギリス国内にあっては全てのコンサートがBBC・ラジオ3で生中継され、またテレビでもBBC4チャンネル、あるいはBBC1(主チャンネル)やBBC2での中継放映も多い。BBCプロムス・ウェブサイトでライブ中継を聴取することも可能である。また、最終夜(以下で詳述)は多くの国(日本ではNHK衛星第2テレビジョン)で中継放送されている。

最終夜「The Last Night of the Proms」
イギリス国内ではその模様はBBC2チャンネルで前半、BBC1チャンネルで後半部分が中継されるのが通例となっている。伝統的に最終夜はより軽く、くつろいだ傾向の構成で、初めにポピュラーなクラシックの曲目、続いて第2部の最後に一連の愛国的な曲である「ルール・ブリタニア」、ヒューバート・パリーの「ジェルサレム」(ウィリアム・ブレイクの詞による)、エドワード・エルガーの「威風堂々」第1番が演奏される[1]。

当夜のチケットは高人気である。それ以外のコンサートの少なくとも5回のチケット購入を行うこと(「Five-Concert Rule」と呼ばれる)が最終夜のチケットを獲得するための条件となっている。そして「プロマー」たちは当日のより良い立ち位置を確保するため早くから行列(しばしば徹夜での行列)することとなり、こういったことが否が応でも雰囲気を盛り上げていく。加えて、素敵に着飾ることも恒例である。ディナー・ジャケットの者もあり、サッカーのイングランド代表チームのユニフォームを着用する者もあり、愛国的な語句を並べたTシャツを着用する者もあり、さらに(国や地域などの)旗や風船、クラッカーを持って入場することも自由である。一連の愛国的な曲は、旗を持つ者はそれを振り、聴衆全員で歌うのが慣例となっている。特に「ルール・ブリタニア」と「希望と栄光の国」の歌詞がつけられた「威風堂々第1番」はサビの部分は必ずアンコールとなる。ヘンリー・ウッドの「イギリスの海の歌による幻想曲」(最終夜の定番の1つである)が演奏されるときは「水兵のホーンパイプ」による3曲目も必ずアンコールされる。最後の最後に場内の全員が起立して「ゴッド・セーヴ・ザ・クイーン(キング)」を斉唱し、この時は楽団員も立ったまま演奏する。その後聴衆と舞台上の合唱団が隣の人と腕を組み、楽器なしで「Auld Lang Syne(蛍の光)」を歌う。最近は一連の愛国的な曲や国家の演奏時にヘンリーウッドの胸像を中心にイギリス国旗(ユニオン・フラッグ)(ただし上半分)が投影されるようになった。この時ソリストが歌唱する場合は、衣装のデザインを愛国的にしたり、愛国的なパフォーマンスを行うこともしばしばである。例えば2008年のブリン・ターフェルは袖にアイルランドとスコットランドの旗、襟にイングランドの旗とイギリス国旗、胴にウェールズの旗をあしらった衣装を着用、2009年のサラ・コノリー(en:Sarah Connolly)はネルソン提督の衣装(レプリカ)を着用し、刀身がイギリス国旗になっているサーベルを抜いて振る[2]、といったものであった。

当夜、ヘンリー・ウッドの胸像は「プロマー代表」の献ずる月桂冠で飾られ、またその代表はウッド卿の禿げ上がった額の汗を拭う仕草をする慣例である。コンサートも終盤に差し掛かると、指揮者は時にユーモアを交えつつ音楽家と聴衆に感謝し、そのシーズン全体を貫くテーマを回顧するスピーチを述べる。また聴衆とともにヘンリー・ウッドを讃えること、プロマーに感謝の意を示すこと、プロムス期間中に集まった寄付の総額を報告すること、そして翌年のプロムス初日の日程の発表をすることも欠かさない。スピーチは1941年に起源がある。

会場のロイヤル・アルバート・ホールは毎回超満員となる。入りきれなかった人々およびロンドン近郊に居住していない人々に対する代償として、プロムス・イン・ザ・パークなる大画面テレビ中継が行われている。初めホールに隣接するハイド・パークのみで行われていたこの中継は、2005年よりベルファスト、グラスゴー、スウォンジーおよびマンチェスターの各都市に拡大されている(年により場所が異なることもある)。各会場ともアルバート・ホールからのフィナーレ中継前の時間には独自のライブ・コンサートの催しがもたれている。これらの会場に集まる人々の総数は数万人に達する。

2004年までBBC交響楽団首席指揮者の座にあったレナード・スラットキン(アメリカ人)は、非イギリス人として初めてプロムス最終夜のタクトを振ることになったが、「(イギリスに対する)ナショナリズムの横溢したこの最終夜の雰囲気を少しばかりでも緩和したい」との意向を表明していた。その意図のもと、2002年からは「ルール・ブリタニア」は「イギリスの海の歌による幻想曲」の一部として演奏されるようになった(1番のみが歌われる)が、スラットキンがBBC交響楽団を去った後はこの形式は必ずしも踏襲されていない。なお、プロムス最終夜の指揮台に立ったスラットキン以外の非イギリス人は2010年現在、イルジー・ビエロフラーヴェクとデイヴィッド・ロバートソンである。スラットキンとビエロフラーヴェクは複数回指揮台に立っている。

なおスラットキンの最終夜への初登場は2001年であり、これはイギリス人の犠牲者も多かったアメリカ同時多発テロ事件の僅か数日後に行われた。この年の最終夜は例年よりは内省的でおとなしい雰囲気の中で行われた(上述の一連の愛国的な3曲のうち「ジェルサレム」しか歌われなかった)。演奏プログラムにも若干の変更が加えられ、サミュエル・バーバーの「弦楽のためのアダージョ」も急遽挿入された。wikipedia

Today's CD
威風堂々THE BEST OF EDWARD ELGAR
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
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内容(「CDジャーナル」データベースより)
ドラマ『合い言葉は勇気』のテーマ曲として使われている「威風堂々」をはじめとするエルガー作品集。映画『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』でおなじみのデュ・プレのチェロも聴ける。

Toda's DVD
The Last Night Of The Proms [DVD] [Import] (2000)
Hilary Hahn (出演), Andrew Davis (出演)
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# by takechihome | 2011-07-12 00:00
道後温泉ふなやは、江戸時代寛永年間より日本最古の温泉、道後温泉に隣接し営業。
ふなやは、道後の湯を愛した夏目漱石をはじめ、正岡子規、高浜虚子ら文人に親しまれ、その足跡は作品によって残されている。夏目漱石も「はじめての鮒屋泊まりをしぐれけり」と詠んでいて文人墨客に愛されていた宿。

庭は中央に御手洗川が流れ、詠風庭に名残りを残し四季折々の表情をもっている。
ホタルも6月には出るそうです。水量は、上流の関で調整をしている。

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その昔、昭和天皇がお泊りになられた洋間を大理石の暖炉、
ステンドグラス器類もそのまま再現し、移築したもの。
大正時代に、旧松山藩主の子孫久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵が建てた萬翆荘を設計した木子七郎が手がけた。
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中央照明の天井部のメダイオンもきちんと修復しているようである。
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ステンドグラスは、萬翆荘のステンドを手がけた、木内真太郎の可能性がうかがえる。


木子 七郎(きご しちろう、明治17年(1884年)4月30日 - 昭和30年(1955年))は、大阪を拠点に、多くの公共建築などの設計を手がけた建築家。とりわけ、妻 カツの父 新田長次郎(新田帯革製造所(現ニッタ)創始者)の出身地である愛媛県に多くの名建築を残した。

経歴
旧木子七郎邸(大正年間竣工・大阪市中央区)
1884年(明治17年)宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男として京都に生まれる(兄に、同じく建築家の木子幸三郎がいる)
1896年(明治29年)高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。
1901年(明治34年)高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
第四高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に入る。
1911年(明治44年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大林組設計部技師として来阪。
1913年(大正2年)大林組を退職し、木子七郎建築事務所を開設する。

その後、日本赤十字社病院嘱託、日本赤十字社大阪支部病院嘱託、合資会社新田帯革製造所嘱託なども務める
1937年(昭和12年)フランスより、レジオンドヌール勲章を授与される。
1955年(昭和30年)逝去。
主な作品
旧山陰合同銀行出雲支店(1920年、旧簸川銀行本店、島根県出雲市)
萬翠荘(旧久松伯爵本邸、1922年、愛媛県松山市)
石崎汽船(1925年、松山市、登録有形文化財)
旧新田邸(現 松山大学温山記念会館、西宮市、登録有形文化財)
愛媛県庁舎(1929年、松山市)
鍵谷カナ頌功堂(1929年、松山市、登録有形文化財)
松江商工会議所(1929年、島根県松江市)
新田ビル(旧新田帯革製造所東京出張所、1930年、東京都中央区、現存しない)
新潟県庁舎本館(1932年、新潟市、現存しない)
日本赤十字社大阪支部病院(1934年、大阪市天王寺区、現存しない)
関西日仏学館(1936年、原案:レイモン・メストラレ(Raymond Mestrallet:フランス人)、設計監督:木子七郎、京都市左京区、登録有形文化財)

Today's CD
ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番
ピリス(マリア=ジョアオ)
若きショパンによりつくられたピアノ協奏曲の作品集。ショパンを得意とする女流ピアニストもピリスが作品のもつロマンティックさや繊細さを見事にあらわしている。
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# by takechihome | 2011-07-10 21:13
SERIES1に乗ってから、12年が経過した。当時の感覚は単車のような加速と、コーナリングの面白さに魅了されたのを記憶している。
 スタイルの斬新さは、フェラーリを上回っている。イギリスの前衛デサインは、インダストリーにおいては、他国の追随を許さないところがある。
今回の、エリーゼS は、ローバー破綻によりKシリーズを失ったスタンダードエリーゼに替わり、新たにトヨタ・1ZZ-FEを得たエリーゼの基本グレード。0~100km/h加速は6.1秒。最高速は205km/hのスペック。 
1ZZ-FE
供給元/TOYOTA 100kw(136ps)/6,200rpm 172Nm(17.5kg/m)/4,200rpm 可変バルブタイミング機構付き

The Lotus Elise is a two seat, rear-wheel drive, mid-engined roadster conceived in early 1994 and released in September 1996 by the English manufacturer Lotus Cars. The car has a hand-finished fibreglass body shell atop its bonded extruded aluminium chassis that provides a rigid platform for the suspension, while keeping weight and production costs to a minimum. The roadster is capable of speeds up to 240 km/h (150 mph).[2] The Elise was named after Elisa, the granddaughter of Romano Artioli who was chairman of Lotus at the time of the car's launch.
Production 2002–present

倒産の危機に瀕したロータスが社運を賭けて開発したエリーゼは、画期的なアルミニウムシャシーを掲げて1995年のフランクフルトショーで華々しくデビューした。慣習的なリベット止めを用いないシャシーは大いに注目を集め、翌1996年のデリバリー当初より大量のバックオーダーを抱えることとなる。初期ロットで実に690kgと軽量なことに加えF1コンストラクターとしても活躍した技術を随所に散りばめられたエリーゼはハンドリング面で非常に高い評価を得、順調に生産を重ねた。エンジンのバリエーションやエキシージと呼ばれるクローズドクーペモデルの追加などを受けつつ2001年にはビッグマイナーチェンジを果たし、フェイズIIへと進化した(海外では、Mk1/Mk2やS1/S2等と呼称される)。また2004年にはトヨタよりエンジンの受給を開始し、さらなるグレードの拡大を図っている。更に2010年には再びフェイスリフトを行い、またトランスミッションを5MTから6MTに変更した。エスプリの生産が終了した今、名実共にロータスの屋台骨となるモデルであるとなっている。エリーゼはEで始まるロータス伝統の名前が付けられているが、その出自は当時のロータス株主であったブガッティの会長ロマーノ・アルティオーリの孫娘の名前「エリーザ」に由来している。
構造 アルミニウムシャシーは慣習的なリベット止めとはせずに航空機製造用のエポキシ系の接着剤で固定されており、剛性確保や組立て精度向上とともにシャシー単体で68kgと軽量化にも寄与している。初期ロットのエリーゼは軽量化のためエンジンベイ、リヤハブキャリアもアルミで作られている。またブレーキローターまでも量産車初のアルミ(メタルマトリックス)ディスクを使っていた。1998年以降のロットにおいてはアルミディスクの供給会社が倒産したため通常のスチールに変更されたほか、その他のアルミ部品も鉄もしくはFRPに変更され少なからず重量が増加している。エンジンはリアに横置きミッドシップマウントされ、後輪を駆動する。サスペンションはフロント/リアともにスポーツカーの王道とも呼べるダブルウィッシュボーン。ボディは総FRP、幌は布製で折り畳み式ではなく手動での脱着式。オープン時はタルガトップ形態となる。二座式。

エンジン ~2006年5月 [編集]基本となるのはローバーが供給する1.8LNA直列4気筒(DOHC、形式名は18K。Kシリーズと呼称される)。1998年にVVCと呼ばれる可変バルブタイミング機構を備えたラインナップが加わった。さらに2004年には同じく1.8Lの排気量を持ち米国の排気ガス規制をクリアするトヨタ製の2ZZ-GEエンジン(VVTL-i搭載)を追加、3種類のバリエーション展開となった。基本グレードをスタンダード、VVC付きを111、2ZZ-GE搭載型を111Rという名称にしている。外見上の識別点はマフラーがKシリーズはサイドツイン出し、2ZZ-GEがセンターツイン出しとなっていることである。またリアディフューザーがスタンダードはシングルピース、111以降のモデルはスリーピース構造となっている。

2006年6月~ ローバー破綻の影響を受け従来のKシリーズエンジンの供給が打ち切られたことから、次期スタンダードエンジンとしてトヨタ・1ZZ-FEエンジンが選ばれた。可変バルブタイミング機構はVVT-i。マフラーは2ZZ-GEと同じくセンターツイン出し。ディフューザーはスリーピースのみとされている。2ZZ-GEが高回転志向なのに比し1ZZ-FEは低回転重視となっているため、そのスペック差は常用域では表れない。これにより、現行エリーゼシリーズに搭載されるエンジンは全てトヨタ製となった。
wikipedia



Engine 1.8 L Rover K-Series I4
1.8 L Toyota 1ZZ-FE I4[7]
1.8 L Toyota 2ZZ-GE I4[8]
Transmission 5-speed manual[7]
6-speed manual[8][9]
Wheelbase 2,300 mm (90.6 in)[10]
Length 3,785 mm (149.0 in)[10]
Width 1,719 mm (67.7 in)[9][10]
Height 2002–07: 45.0 in (1,143 mm)
2008–present: 1,117 mm (44.0 in)[10]
Kerb weight 860 kg (1,896 lb)[11]
910 kg (2,006 lb)[12]
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Today'sCD
チェット+1 [Limited Edition]
Album Details
Japanese-only SHM-CD (Super High Material CD) pressing of this album. SHM-CDs can be played on any audio player and delivers unbelievably high-quality sound. You won't believe it's the same CD! Universal. 2009.
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# by takechihome | 2011-07-08 17:52
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高浜港からフェリーで10数分の距離に興居島がある。フェリーのデッキで、お茶をいっぱい飲む程度の時間で興居島の泊港につく。
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右手の小さな島が、ターナー島(四十島)遠方にTORAY松前工場、伊予市の行道山、谷上山を望む。
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興居島は、柑橘類の栽培が盛んで、島みかん、興居島みかん、興居島いよかんとして知られる。
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島の南部の小高い山は、伊予小富士と呼ばれ、その姿は優美である。地元では親しみをこめて、小富士山(こふじさん)と呼ぶ。瀬戸内航路では、松山入港の目標となる。飛行機も海から侵入するときは、小富士を旋回し着陸体制に入る。
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正面の島は、釣島(つるしま)人口は80人あまり。島内の給水は、海水淡水化施設に頼っている。中島汽船の、松山港(高浜港)からの西線のカーフェリーが1日1往復(上り第1便、下り第2便の変則)発着するのみで、松山港方面からの日帰り等は無理であったが、2006年10月1日から一日2往復となり交通利便性は向上した。釣島灯台は、1873年(明治6)6月15日に初点灯したが、2年近くの工期を費やした。かの、「灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によるもの。
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島の農家の人の中には、みかん畑をお花畑に転換している人も出てきている。
 JAの興居島地区の農家らで構成する「ごご島里山作りグループ」(代表・山内カネ子さん、他20人)は毎年、段々畑を利用し島内外の小学生を招いて農業体験をする「島の学校」を開いている。
 同グループは2005年、島の景観保全や活性化を目指し地元主婦らを中心に発足。「島の学校」は、農業体験を通じて食の大切さや島の良さを知ってもらおうと4年前から始めた。年々参加希望団体が増え、今年は味酒小学校など6団体が参加する。
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旧泊小学校 現在は廃校になっている。泊まり地区の小学生は現在4人で興居島小学校に統合されている。松山市では、旧由良小学校と合わせて、民間から廃校利用を募っている。
廃校を、島の再生の拠点にならないか、島民を巻き込みこの学校を島つくりのプラットフォームになり得ないか、検討中。
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Today'sCD
Candy [CD, Import, from US]
チェット・ベイカー
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# by takechihome | 2011-07-05 22:46
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子宝石と言って、
1. 何も書かれていない丸い石を探し、持ち帰る。
2. 家に持ち帰った後は塩水で清め、仏壇かそれに準ずる清浄な場所(足が触れない場所)にお祀りする
3. 子どもが無事生まれたら、お祀りしていた石に名前と誕生日を記入する
4. 近所の河原・海岸で同じように丸い石を探し、手に入れる
5. 名前を書いた石、何も書いていない新しい石 共に51番に持参し、返納する

安産祈願、石手寺さん独自のおまじない。
最初に手に取る石は 丸ければ丸いほど 良いとされています。
角が取れて、心がまあるい子に育つそうである。


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えびす(ゑびす)
日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。本項で詳述。
外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の一柱。本項で詳述。
神格化された漁業の神としてのクジラのこと。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。本項で詳述。
寄り神。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。寄り神信仰や漂着神ともいう。本項で詳述。
蝦夷(えぞ、えみし)の別称。未開の民や東国の武士をさし、または外国人の蔑称。
他の神との習合 [編集]
宮城県気仙沼市五十鈴神社浮見堂のえびす像えびすが蛭子命や事代主に結び付けられたのは両神とも水に関連していたためである。

えびすを蛭子命と結びつける説は鎌倉時代頃に現われたものである。記紀神話において、蛭子命は3歳になっても足が立たなかったため流し捨てられたとされる。その神話を受けて、流された蛭子命はどこかの地に漂着したという信仰が生まれ、その海からやってくる姿が海の神であるえびすの姿と一致したため、2つの神は同じ神だとされるようになった。

その漂着した地の伝承は各地にあるが、その代表が兵庫県西宮市の浜で、そこには蛭子命系のえびす神社の総本社である西宮神社がある。また、えびすのことを夷三郎と呼ぶのは、『日本書紀』において3番目に生まれたことに由来するとされる。

一方、事代主神は託宣の神といわれ、記紀神話においても直接に水との関連はない。しかし、記紀神話の中の国譲りの項で、天津神からの国譲りの要請を受諾するかどうかを大国主神の使者が事代主に聞きに訪ねたとき、事代主は釣りをしていたとされ、その海で釣りをする姿とえびすの海の神であることが結びつき、同一の神とされるようになったといわれる。

七福神の絵図でえびすが釣竿を持ち鯛を釣り上げた姿で描かれるのは、この事代主神の話に基づくものである。また、えびすと大黒は親子とも言われるのも、事代主の父親である大国主命が大黒天と習合した事による。

なお、えびす信仰が生まれる以前から事代主神を祀っていた神社で、後にえびすを祀るという形にしたものも多数ある。逆に、明治維新の際に国学の神道理念によりえびすや蛭子といった神格を軽視し、祭神名を事代主神に改め、由緒も書き換えた神社も存在する。
wikipediaより



Today's CD
コダーイ:ハーリ・ヤーノシュ
クリーヴランド管弦楽団
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内容(「CDジャーナル」データベースより)
亡くなる前年、69年のコダーイとプロコフィエフの演奏で、最晩年のセルの持ち味を楽しむことができる。ボロディン、リムスキー=コルサコフらロシアの作曲家の作品もカップリング。
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# by takechihome | 2011-07-03 16:13