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2008年月5日
4日に引き続きコンサート三昧。ウイーンフィルとピアノ、指揮がダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )はアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニスト・指揮者。現在の国籍はイスラエルである。
盛大な拍手に迎えられて登場したマエストロ・バレンボイムは指揮棒を持ち、ピアノは弾かず、まず前段としてフランツ・リストによるカンタータ「ベートーヴェン百年祭に寄す」(Introduction to the Cantate "Zur Säkularfeier Beethovens" , Adagio from op. 97)が演奏されました。
ベートーヴェンのピアノ・コンチェルト3番と4番 66歳のバレンボイムには思えないほど、エネルギッシュな演奏と指揮でした。
アン・デア・ウィーン劇場(アン・デア・ウィーンげきじょう、Theater an der Wien)は、オーストリア・ウィーンにある歌劇場。ミュージカルやオペラを上演する劇場として、1801年の開館以来、多くの市民・観光客を集めている。ウィーン劇場協会(Vereinigte Bühnen Wien)に加盟しており、運営はウィーン市の100%出資企業であるウィーン・ホールディング(Wien Holding)が担当する。
市内中心部、ウィーン6区(マリアヒルフ)のリンケ・ヴィーンツァイレ(Linke Wienzeile、ウィーン川左岸通り)沿いに位置する。劇場名の「アン・デア・ウィーン」とは「ウィーン川に面した」という意味であり、ドナウ川の支流で劇場の傍を流れるウィーン川に由来するものである。今日では、ウィーン川は劇場付近が暗渠化されており、直上はナッシュマルクトと呼ばれる市場になっている。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのオペラ『魔笛』の台本で成功したエマヌエル・シカネーダーが、1791年に皇帝の認可を受け、建築家フランツ・イェーガーによる帝政様式の設計をもとに1798年より建設を開始、1801年に落成した。当時の建物は限られた部分しか現存しておらず、ミレッカー通り(Millöckergasse)に面した「パパゲーノ門」(Papagenotor)はその一部である。これは劇場を建てたシカネーダーを記念する門であり、『魔笛』で自ら「パパゲーノ」役を演じるシカネーダーと、彼と共に出演した3人の息子たちの姿を見ることができる。
開館よりほどなくしてシカネーダーは破産し劇場を手放すものの、保持していた皇帝の認可によって芸術監督の座を守り、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを音楽監督として招聘。ベートーヴェン作のオペラ『フィデリオ』などを上演した。劇場内には、ベートーヴェンを記念する部屋が残っている。
19世紀には、劇場はヨハン・ネストロイなどに代表されるウィーン大衆演劇(Alt-Wiener Volkstheater)、その後ヨハン・シュトラウス2世やフランツ・レハール、カール・ミレッカーなどによるオペレッタ作品を数多く上演して、ウィーン市民の人気を博した。世紀末ウィーンとも重なるシュトラウスの時代は「オペレッタの黄金時代」、レハール・ミレッカーの時代は「銀時代」と呼ばれる。
第二次世界大戦後、 劇場は空襲の被害を受けたウィーン国立歌劇場の代替としての役割をしばらく担った。カール・ベームの指揮で『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』といったモーツァルトオペラ作品が上演され、その一部は録音が残されている。
しかし、国立歌劇場が移転・再オープンした1955年、劇場は安全上の理由で一時閉鎖を余儀なくされた。数年間利用がされないまま、劇場を大駐車場に転換する計画も浮上するなど、一時は閉館の危機にあったものの、結局は存続が決まり、最新の設備を導入、改装を施してミュージカル劇場として生まれ変わることになった。
1962年より、劇場は毎年5・6月に開かれる文化フェスティバル「ヴィーナー・フェストヴォッヘン」(Wiener Festwochen)のメイン会場となっている。なお、ハンス・クナッパーツブッシュがヴィーナー・フェストヴォッヘンで指揮した映像のDVDは、この劇場で収録されたものである。
劇場はその後、ミュージカル公演の会場として有名になった。これは1983年より総監督を務めたペーター・ヴェックによるところが大きい。ヴェックのもと、1983年にアンドリュー・ロイド=ウェバー作『キャッツ』のドイツ語版初演がこの劇場で幕を開けた。心理学者ジークムント・フロイトの生涯を描いたエリック・ウルフソン作『Freudiana』こそ芳しくなかったものの、ミヒャエル・クンツェとシルヴェスター・リーヴァイによる『エリザベート』は500万人以上の観客を集める大ヒットを記録し、全世界で史上もっとも成功したドイツ語ミュージカルとなった。2003年秋の再演の際には、オーストリア国内で記念の郵便切手が発行されている。
『エリザベート』のロングランヒット後は、同じくクンツェ・リーヴァイのコンビによるミュージカル『モーツァルト!』が1999年10月より2001年5月まで上演された。この作品は「2000年最優秀ミュージカル」に選出された。
Today's CD

巨匠リヒテルが60年前後に残したベートーヴェンとモーツァルトのピアノ協奏曲。ともに短調の協奏曲が選ばれているこのディスクでは、壮年期のリヒテルの厳しい音楽づくりが実感できる。













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2008年4月 ベルリーニ「夢遊病の女」の上演をオフィスアルカディアの二宮氏のお世話で友人夫婦と鑑賞
当時Lexusが筆頭スポンサー (現在も継続)
パッパー眞理氏によると
劇場運営は火の車
一晩の経費は、約4千万円。年間では、
140億円といわれる国立歌劇場は、年
に一度の大統領主宰の「国立オペラ座舞
踏会」を除いて毎晩赤字である。
チケット収入なんぞ全収入の三分の一以
下、累積赤字額は250万ユーロ(約4
億1千万円)にのぼる。
芸術にはパトロンが必要だが、ウィーン
にある四つのオペラハウスを支えている
のは、観光客と国民(納税者)、そして
企業のスポンサーである。
オペラハウスは、なんとか特上の高い席
を大型バスで流れ込んでくる観光客に買
ってもらおうと努力している。
2002年に小澤征爾が国立歌劇場の音
楽監督に就任すると、彼を見たさに日本
から観光客が詰めかけ、翌年のシーズン
では客席稼働率が過去最高の97.24
%に上昇した。
http://www.wiener-staatsoper.at/Content.Node/home/index.php
ウィーン国立歌劇場(こくりつかげきじょう、ドイツ語: Wiener Staatsoper ヴィーナー シュターツオーパー、ドイツ語の原音から「ヴィーン〜」とも→ヴ(Vの日本語表記)参照)はオーストリアのウィーンにある歌劇場。1920年まではウィーン宮廷歌劇場と呼ばれていた。レパートリーシステムをとる。
ウィーンがドイツから北イタリアにまたがる神聖ローマ帝国の首都であったため、ドイツ・オペラのみならずイタリア・オペラにとっても中心的存在であったことと、専属オーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団が、世界でも一、二の人気を争う(英「グラモフォン」誌や日本「レコード芸術」誌のオーケストラ・ランキングでは常に3位以上を維持、歌劇場管弦楽団を兼ねる団体でこの位置に入った例は他に無い)オーケストラであるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体であることからもわかるように、世界最高の歌劇場とされる。ドイツオペラとイタリアオペラの両方をカバーするという点では、逆の立場(オーストリアの支配を受けていた)にあったミラノのスカラ座にも同様の性格はあるが、古くからイタリア人スター歌手も多く専属化するなど、ウィーンの国際性は一段と徹底している。
劇場はウィーンの中心部、ケルントナー通りとリング通りの交点に面して建てられている。ネオ・ロマンティック様式の建屋は建築家エドゥアルト・ファン・デア・ニュル(意匠)とアウグスト・シカート・フォン・シカーズブルク(構造)によるもの。
建設当時はひどく批判されたが、1869年5月25日にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の上演でこけら落しを行った。その後は総監督でもあった作曲家リヒャルト・シュトラウスのナクソス島のアリアドネ(1916年10月4日)や影の無い女(1919年10月10日)の世界初演が行われている。
第二次世界大戦中の1945年3月12日、連合軍の爆撃により舞台が破壊され、建物は火災に見舞われた。モーリツ・フォン・シュヴァイエのフレスコ画のあるホワイエと正面階段、連廊、それに喫茶室は焼失を免れたが、120作のオペラ上演のための舞台装置と大小道具のほぼ全て、15万着もの衣装が失われた。このため国立歌劇場はウィーン・フォルクスオーパー(1945年5月1日から6月14日まで)およびアン・デア・ウィーン劇場(1945年6月18日から1955年8月31日まで)を仮の拠点とした。また、従来ウィーンの上演と連携したプロダクションを上演していたザルツブルク音楽祭は、これにより独自のプロダクションを作るようになった。
再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任したカール・ベームの指揮によるベートーヴェンの『フィデリオ』によって1955年11月5日に再開した。
作曲家グスタフ・マーラー(1860-1911)もこの歌劇場で活躍した数多くの高名な指揮者の一人である。マーラーはアナ・バール・ミルデンブルク(1872-1947)、セルマ・クルツ(1874-1933)、レオ・スレザーク(1873-1946)ら新しい世代の歌手を積極的に登用し、また舞台デザイナーを雇用して伝統的で豪華な舞台装置をモダニズムやユーゲントシュティール風の様式の簡素なものに置き換えた。さらに上演中に客席の照明を落とす慣行を作ったのもマーラーである。これは当初は聴衆の不評を買ったものの、後継者らはこの改革をそのまま続けた。また今では慣習化しているが、『フィデリオ』のフィナーレでの舞台転換の時間をかせぐために、「レオノーレ序曲第3番」を挿入するアイデアもマーラーによるものである。また、それまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場でヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(「灰かぶり姫」というシンデレラ物語)をヨハン・シュトラウス2世に委嘱したが、これは完成しなかった(「ヨハン・シュトラウス〜ワルツ王と落日のウィーン」小宮正安 中央公論新社)。
そのほかの高名な指揮者としては、ハンス・リヒター、フェリックス・ヴァインガルトナー、リヒャルト・シュトラウス、クレメンス・クラウス、アルトゥーロ・トスカニーニ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ロリン・マゼール、カルロス・クライバー、クラウディオ・アバド、小澤征爾、リッカルド・ムーティ、フランツ・ウェルザー=メストらがいる。
ウィーン国立歌劇場はイタリアやその他の外国語作品も契約歌手によるドイツ語による上演を行ってきたが、カラヤンは客演歌手を招き原語上演する方針を導入した。これは、やはり訳詞上演が慣例化していたドイツその他の国の大歌劇場にも波及した。
歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級によるオペラ座舞踏会にも使用されてきた。 wikipedia
建設は、アウグスト・ジカルト・フォン・ジカルツブルクとエドゥアルト・ファン・デア・ニュルによる設計案に沿って、1861年に始まりました。2000人以上を収容する建物の建設は、大規模なものでした。現在のオペラ座には1709席、さらに567名分の立ち見席があります。そして、舞台はヨーロッパ最大の舞台の一つに含まれます。
しかし、これほどの壮大さにもかかわらず、ネオ・ルネッサンス様式による設計は当初猛烈な批判を受け、あまりの非難の激しさにニュルは自殺に追い込まれ、ジカルツブルクも落成式の数ヶ月後に心筋梗塞で亡くなりました。
オペラ座は1869年5月25日にオープンし、こけら落としにウォルフガング・アマデウス・モーツアルト作「ドン・ジョヴァンニ」が演奏されました。

Eduard van der Nüll

Das Opernhaus kurz nach Baubeginn im Jahr 1863

Eröffnungsvorstellung im neuen Haus der Wiener Hofoper mit „Don Giovanni“, Innenansicht mit Blick auf die Bühne, 25. Mai 1869

wikipedia
Today'S CD
MOzart BEST 50
モーツァルト生誕250年記念 エターナル:モーツァルト
オムニバス(クラシック) (アーティスト), クリヴィヌ(エマニュエル) (指揮), コシュラー(ズデニェク) (指揮), ブロムシュテット(ヘルベルト) (指揮), ハーガー(レオポルド) (指揮)
モーツァルト生誕250年記念でリリースされた、5枚組コンピレーション・アルバム。フェイド・アウト、フェイド・インなしで、モーツァルトのオール・ジャンルから、主要な名曲の聴きどころが揃う。







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2008年4月 念願の学友協会ホール Daniel Barenboimのピアノソロ
ウイーンフィルが聴きたかったが、スケジュール上叶わず。世界でも最高のシューボックス型の代表コンサートホール。ボイムの演奏中ピアノの高音域でハウリングが生じていた。壁面、天井の装飾により拡散音が生じているように思うが、観客、シートによる吸音がかなり効いて、残響はかなり短いホールのように感じた。
http://www.musikverein.at/
ウィーン楽友協会(ヴィーナー・ムジークフェライン ドイツ語:Wiener Musikverein)は1812年設立されたオーストリア・ウィーンにあるクラシック音楽関係者による団体およびその本部の建物。ただし大ホールは1870年に建設された。日本では「楽友協会」と呼ばれることが多い。
19世紀のメンバーには大作曲家ヨハネス・ブラームスなども名を連ねている。特にブラームスは協会主宰のコンサートで指揮を振り、小ホールで自身のピアノ作品の初演を行なっている。このため1937年に彼の功績を称え、小ホールが「ブラームス・ザール」と名づけられた。現在のメンバーにはロリン・マゼール、アルフレッド・ブレンデルなど。
大ホールは通称「黄金のホール」と呼ばれ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として知られる演奏会場である他、同じ建物に資料室や出版社、ベーゼンドルファー(ピアノメーカー)などが同居している。
wikipedia
建築美術家は、コペーンハーゲン生まれ、1891年にウィーンで没することになるTheophil Hansen「テオフィル・ハンセン」。彼はウィーンの美術アカデミー出身、アテネでギリシア古典建築を学んだために、アテネにも彼の作品が残ってます。ハンセンの建物はウィーン中にたくさんあり、楽友協会の他に国会議事堂、証券取引所、美術アカデミー等がよく知られています。彼の作品にはギリシア古典の影響が見られ、国会議事堂はその典型です。
皇帝フランツ・ヨセフの援助で造られた楽友協会は、造られたそのときから現在に至るまで、そしてそれが存在し続ける限り、音楽家による音楽家のためのホールとして世界最高の音響と、聴衆!を持ち続けています。
ホール内部は、音響上一番有利とされる木造に、金箔の輝かしい響きが加えられました。さらに、床を2重構造にすることにより共鳴箱としての機能を加え、宙づりの天井は響きへの共振を考えて作られたものでした。幸運なことに、楽友協会完成直後にすぐ横を流れるウィーン川に蓋がされ、その大きな坑道が巨大な共鳴空として機能するようになりました。
今では130年以上弾き込まれたバイオリンの名器にたとえられ、名実共に世界一のコンサートホールとして知られてます。
Theophil Hansen


wikipedia
建築家テオフィル・フォン・ハンセン(Theophil von Hansen)は、1813年7月13日にコペンハーゲンで生まれ、アテネで建築を学びました。アテネでの8年間の滞在の後、1846年、ウィーンにやってきました。
彼は、19世紀のウィーンで建築家として活躍し、多く建造物の建築を請け負いました。彼が設計した有名な建物では、例えば、楽友協会(Das Haus der Wiener Musikfreunde)や国会議事堂(Parlament)、エプシュタイン宮殿(Palais Epstein)、証券取引所(Börse)などがあります。国会議事堂は特に、彼がアテネで建築を学んだことがよく分かる作品です。
ハンセンは1891年にウィーンで亡くなっていますが、今日でも、国会議事堂の入り口に彼の記念碑が立っています。
Today's CD
バッハ:平均律クラヴィーア曲集 全曲

児童クラブの時計台のテーマは「コミュニティー」。みんなが仲良く寄り添って住まう「まち」を考えようということで、最初に40名の児童に「世界の住まいと建築」というテーマで竪穴住居から伊予市の町屋、日本各地の民家、海の上に浮かぶ民家、ガウディーの建築、コルビジェの建築とP.P.で紹介。藤森の高過庵、空飛ぶ泥舟には子どもたちも歓声を上げる。クラブにお母さんが迎えに来るまでの1時間、みんなの理想とする家のお絵かきが始まった。女の子のほとんどはドールハウスフリルの付いたカーテン、窓辺に植木鉢、一人屋根の上に野菜畑を描いているユニークな子もいた。



完成イメージ
かつては無かった放課後の受け入れ施設。親が迎えに来るまで子供たちはみんなと遊ぶ。それはそれで安全で、保護者も安心して預けられる場所ができたと思う。反面こういった施設が必要となった背景には、まちに子どもの遊び場が無くなったとも言える。3世代が一緒に住まうことも無くなり、向う3軒寮両隣の小さなコミュニティーも、もはや存在しなくなったのか。時代の流れと片付けてしまっていいのだろうか。
Today's CD
シェーンベルク:浄夜
カラヤン(ヘルベルト・フォン),ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

これらシェーンベルクの作品は後期ロマン派的な傾向を残しつつ独自の手法を模索していた初期のもの。演奏会場では表現が不可能な手法をも実現した名盤といわれた。65歳の巨匠カラヤンと録音エンジニアの感性が創造した名演がクリアなサウンドで蘇る。

永山優子「Man is...」
写実絵画界のリーダーである野田弘志氏は著書『リアリズム絵画入門』のなかで、「写実絵画とは物がそこに在る(存在する)ということを描くことを通してしっかり確かめようとすること。物が存在するということのすべてを二次元の世界に描き切ろうという、一種無謀ともみえる絵画創造のあり方。物がそこに在るということを見える通りに、触れる通りに、聞こえる通りに、匂う通りに、味のする通りに描ききろうとする試み」と述べています。
Today's CD
Konitz Meets Mulligan

キアヌ・リーブス、サンドラ・ブロック主演の、イルマーレ(LakeHouse)。その一節で流れるALMOST LIKE BEING IN LOVE7曲目に収録
チェット・ベイカーも参加している、ジェリー・マリガン・カルテット(ピアノを欠くため)との共演である。

NHKの日曜美術館で最近取り上げられ、前々から気になっていた本’比嘉康雄写真集「母たちの神」’が、ジュンク堂から届く。「母たちの神」は、奄美大島から与那国島までの4諸島の祭祈を撮った162点の作品からなる。
人々は、魂の不滅を信じ、魂の帰る場所、そして再生する場所を海の彼方のニラーハラーに想定し、そこから守護神を持って島の聖域に立ち返る母神の存在に守護を頼んでいる。この「母たちの神」は、「生む」「育てる」「守る」という母性の有り様の中で形成された、つまり、内発的、自然的で、生命に対する慈しみがベースになっている「やさしい神」である。この母性原理の文化は、父性原理の文化がとどまることを知らず直進を続けて、破局の危うさを露呈している現代を考える大切な手がかりになるであろう。「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」前書きより
沖縄は、JIA愛媛地域会の会長時代に、沖縄全国大会で始めて訪れた。
メンバーより一日早く付いた私は、首里城や歴代王の墓、町を散策、気候風土、植生ももちろん本土とは異なり、歴史的遺産を見ても本土の建築とは相違点が多い。何か文化的にも大きく違う民族が住み着いた島であると感じた。
首里、那覇は別として儒教も仏教も庶民に根付くことはなかった。女性中心の祭祈が琉球の島々にだけ残っているということと、そのことは深く関わっていると思われる。本土にある女人禁制の風習は、沖縄ではまれに見られるものの、御嶽は母たちの原郷であり女性だけが入ることができる。男性は「禁制」である。日本文化と沖縄文化の大きな違いである。
比嘉氏の語る「母性」とはまさに他では失われた原初的「母性」ではなかろうかと思う。
安里英子の書評より
仲松弥秀著の「古層の村」の結語で、「沖縄にはいまだに神の村々が残っている。しかし、悪貨は良貨を駆逐する。沖縄の島々にも、文明などと称する仮想悪魔が濤々と押しかけてきた。やがて、人を見たら盗人と思えの島々と化して行くのであろう。島の神々は恋しくも一時姿をくらましていくであろうが、でも何時の日にか再び!」というのがある。
普天間を県外にと懇願する仲井眞知事、アメリカ軍の極東防衛の要は日米安保上、アメリカの要求も理解できる。しかし、「母たちの神々」が守る神聖な島の背景を思うときもうこれ以上という気持ちも沖縄県民だけではないと思う。
沖縄についての記述
紀元前から西暦1000年くらいまでの沖縄の歴史は、謎に包まれていて日本や中国の書物に断片的に記されている情報からしか読み取ることができません。
神話的な言い伝えになりますが、沖縄の始まりは久高島にあると言われています。久高島に上陸したアマミキヨ、シネリキヨの二柱の神が土地を造成し、島となり、それから琉球開闢七御嶽をつくり、島に人間を放ったとされた伝説です。
沖縄が歴史に登場したのは610年のことです。610年に沖縄を探検した随の海軍の提督は、時の皇帝煬帝に「琉求人は勇敢で戦好き。負けると和を乞い、戦死者を収容して共に食う」と報告したことが中国の書物に残されています。この情報は遣隋使であった小野妹子にもつたわり、「琉求は食人国(しょくじんこく)」と大和朝廷に伝えられたのです。
文字が「琉求」となっているので、これは沖縄ではないという説もありますので、真相は定かではありません。また、人肉食習慣(カニバリズム)は現代では信じられないことですが、古代世界では「死んだ者を食べると、その人は食べた人の中で永遠に生きつづけると言う信仰」は世界各地で見られました。神聖な儀式とされていたのです。
日本の国史に初めて登場したのは753年のことです。遣唐使が初めて沖縄に流れ着き、住民の発音から「阿兒奈波(おこなは)」と名付けられました。以降、遣唐使の船は沖縄に度々漂着することとなり、「大和」と「唐」の存在を沖縄に知らしめることになりました。
Today's CD
Trio Music Live in Europe: Touchstones Series



Leica M8 Carl zeiss C sonner T1.5/50mm ZM

この社は明治43年(1910)に上三谷村に村社中御前五社大明神社と若皇神社と無格社金刀比羅神社の三社を合祀した。従って祭神は天御中主尊、天照大御神ほか10神となっている。
今年は、伊予市の文化施設、郡中町物語間、市民会館に替わる劇場、音楽、芸能、演劇、アート工房を備える芸術村、図書館の基本構想とその運用についての計画案を取りまとめなければならない。
閉塞感の抜けきれないままで手をこまねいていては。市民が文化を共有できる伊予市、文化を切り口に新たなコミュニティーの場を創るチャンスは、この機会しかないといってもいい。
現存する町屋、文化資産、歴史的資産を生かしたまちづくりの取り組みが必要である。
次の世代のためにも、われわれが何を残せるか。
市民が文化に目覚め、文化を通じて生きる喜び、生活に潤いを感じる日々を、ぜひとも取り戻さなければならない。
Today's CD
グリーグ:交響曲
ヤルヴィ(ネーメ),エーテボリ交響楽団

交響曲 ハ短調(Symfoni)は、エドヴァルド・グリーグが作曲した唯一の交響曲。生前には未出版に終わった。「作品番号の無い作品カタログ」ではEG.119。
1863年から1864年にかけて作曲され、デンマークの作曲家ニルス・ゲーゼの勧めを受けて、コペンハーゲンでこの交響曲を書いた。第1楽章を除く3つの楽章は1864年にコペンハーゲンのコンサート・ホールで演奏され、グリーグ自身も翌1865年に中間の2つの楽章を、また1867年にはクリスチャニア(現オスロ)で第1楽章を除く3つの楽章を指揮した。さらに1865年と1867年にグリーグの故郷ベルゲンで演奏された。しかしグリーグ自身はこの演奏は聴いていなかった。
その後、1869年に中間の2つの楽章を「2つの交響的作品」作品14のタイトルでピアノ連弾用に編曲した。だが、ヨハン・スヴェンセンの民族的要素の濃い「交響曲第1番」(1871年初演)を聞いたグリーグは、自身の交響曲をドイツの影響が色濃いとして、「決して演奏してはならない」とスコアに書き込み、引っ込めてしまう。
死後、未亡人のもとにあった交響曲の自筆譜は、のちにベルゲンの公立図書館のもとに移され、1981年にカルステン・アンデルセン指揮・ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団により蘇演されるまでの間、眠ったまま保管されていた。現在は「グリーグ全集」の中で出版され、公に演奏できるようになっている。
曲の特徴としては、メンデルスゾーンやシュポーア、そしてシューマンの影響を受けていることがこの作品に示されている。
ちなみに、第1楽章は14日間で作曲し、オーケストレーションをしたとグリーグ自身は述べている。